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<安倍は秀吉?それとも...>自民党圧勝の衆院選を戦国武将に例えると

メディアゴン / 2017年10月27日 7時30分

保科省吾[コラムニスト]

* * *

自民党の圧勝で終わった今回の衆院選挙を、戦国時代の武将たちに例えてみると、現在の日本の政治状況の本質が見えて来る。

「本能寺の変」で信長(自民党)が明智光秀によって誅され、信長の嫡男・信忠が自刃すると、備中高松城の攻城戦を行っていた羽柴秀吉(安倍晋三)は、ただちに毛利軍と和議を結び、いわゆる「中国大返し」と言われる機敏さで畿内へ急行して、「山崎の合戦」で明智光秀を討った。

秀吉の権威はこれによっていやが上にも増して行く。

一方で、この戦いに遅参した柴田勝家(小池百合子)は信長譜代筆頭の武将でありながら、その扱いは百姓上がりの秀吉より軽んぜられることになってしまった。

【参考】<言葉だましの達人?>「ずらしの安倍」「すべりの小池」

信長の継嗣を巡って開かれた清洲会議に集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。

信長の跡取りの資格を持つ物は、まず信長の次男・信雄(前原誠司)及び三男信孝であった。信孝は信長の血を引き英邁なところがあったが、信雄は誰もが愚鈍と評価する武将であった。

結局、秀吉は亡き信忠の嫡男で、信長の嫡孫である三法師を名代とすることを全員に納得させた。三法師には次男・信雄が後見につくこととなった。

しかし、この処遇に納得が行かない信雄(前原)は、やはり不満を抱えていた柴田勝家(小池)に近づく。柴田勝家と秀吉(安倍)の戦いが「賤ヶ岳の戦い」である。まず、一度は秀吉に降伏していた柴田軍の信孝が挙兵。当初、柴田勝家軍に属していた信雄は態度が定まらず、結局、秀吉に与した。その後、弟、信孝を攻め、信雄は使者を送り信孝を自害せしめた。

この様子を虎視眈々と見ていたのが東国の徳川家康(枝野幸男)であった。家康は秀吉に見限られた信雄と同盟を結び秀吉と対峙する。「小牧長久手の戦い」である。しかしここでも信雄は信念のない男であった。秀吉と講話して戦線を離脱してしまうのである。家康は信雄、信長の為の戦いという大義名分を失ってしまう。

かつて信長は武装した本願寺を壊滅しようとしたが、石山本願寺(誰に例えようか)が武装を解除したために和解。その後に秀吉は大阪の石山本願寺の土地をほかの土地と交換することで取得。その土地に広大、豪華絢爛たる大坂城を築く。

しかし、この大阪城築城は、秀吉政権滅亡への序章であったことは、日本国民なら誰もが知っている。大阪城の完成は、1585年。その頂点から1614年の豊臣政権の崩壊までの時間は、わずかに29年であった。

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