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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第50回 【茂吉】文字と文字盤(6) 20mmに満たない枠のなかに

マイナビニュース / 2024年9月24日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○小さな原字

石井茂吉は、17.55mmの枠 (仮想ボディ) [注1] のなかに原字を描いていた。たった20mmにも満たない小さな四角のなかに、画数の多い漢字も描いたのだ。意外な小ささにおどろくひとも多いのではないだろうか (写研の原字が基本48mm角で描かれるようになったのは、茂吉が亡くなったあと、1963年以降のことだった [注2] ) 。

わずか数枚のこっている茂吉の原字制作の写真には、ルーペをのぞきながら原字に手を入れている彼の姿がうつっている。小さなサイズの原字で細部を確認しながら描くために、ルーペが必須だったのだろう。

茂吉はかなり初期の段階から、このサイズで原字を描いていたとおもわれるが、それが具体的にいつだったのかははっきりしていない。

くりかえしになるが、茂吉が初めて文字盤をつくったのは1925年 (大正14) 秋に発表した試作第1号機のときだった (試作第1号機文字盤) 。そこからの流れを、原字、そして文字盤の文字の大きさに着目してふりかえってみよう。
○試作第1号機文字盤 (1925年)

茂吉たちは試作第1号機の製作にあたり、メートル法を採用していた。〈これにもとづいて文字盤の文字はタイプライターの四号と五号の中間の四ミリの大きさに決めた (これは初期のレンズ六号、昭和十年以降の十六級レンズにあたる)〉 [注3] と、『石井茂吉と写真植字機』にはある。「タイプライターの四号と五号」といわれると、当時の書籍や雑誌にもちいられていた活字とは別規格なのかとおもってしまうが、これは活版印刷でもちいられていた号数活字の四号 (13.75ポイント相当=約4.85mm) 、五号 (10.5ポイント相当=約3.7mm) とおなじだ。おもに本文にもちいられていた大きさである。文字配列は市販のタイプライターの音訓配列にならい、活字の清刷りからとった3,000字を湿板写真で1枚にとったものを文字盤とした。 [注4]

試作第1号機文字盤の印字品質は、惨憺たるものだった。そこで茂吉は、おそらく1928年 (昭和3) のはじめごろから、つぎの文字盤製作に着手する。1929年 (昭和4) に完成し、5大印刷会社に邦文写真植字機とともに納入された「実用第1号機文字盤 (仮作明朝体) 」だ。
○実用第1号機文字盤 (仮作明朝体) (1929年)

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