「自死」という名称変更への違和感

NewsCafe / 2013年4月3日 15時0分

島根県では、13年度からの自殺対策総合計画の名称を「自死対策総合計画」に変更することになりました。その他の場合でも、原則として「自殺」を使わず、「自死」にすることいなったといいます。遺族からの強い要望があったことが背景です。自殺問題を取材してきた私にとっては、名称変更にはちょっとした違和感があります。

背景としては「自殺」に対する負のイメージ(勝手に死んだ、無責任だ、弱い人)といった行為者への偏見があります。自殺は、本人の性格傾向、弱さだけでなされるものではありません。また、明確な理由が一つだけでもありません。何かの理由がいくつか重なり、それらがからみあって起きるものです。また、直前の心理は、自殺を考えていない他の人から見ると、あるいは本人でさえも理解できないものだったりします。哲学的に、理性的に自殺を選択する人が皆無ではないですが、非常に少ないのです。

これまで「自死」と使われる場面は、自殺で家族を亡くした人たちを「自死遺族」、その子どもを「自死遺児」と呼ぶことがありました。遺族や遺児のなかで「自殺」という言葉のイメージから脱却したいという気持ちがあったのだろうと思われます。また事故で亡くなったのなら「事故死」、病気で亡くなったのなら「病死」と言われるように、自分で亡くなったのなら「自死」という言葉がいいのではないか?という言われ方もしてきました。

私自身は、これまで「遺族」の取材もしてきましたが、「死にたい」「消えたい」と思う当事者や未遂者、または、既遂となった人たちの生前のインタビューを何度もしてきました。当事者から「自殺」という言葉ではなく、「自死」を使ってほしい、とは聞きません。また、自らを「自死願望者」「自死未遂者」と呼ぶ人にも会ったことがありません。

それに、自殺の見方が名称変更によって払拭できるものなのでしょうか。仮に、できるものであり、かつ願望者、未遂者、既遂者した当事者たちの願いであるのなら私も違和感を持たないでしょう。しかし、現状では「自死」と変更したからといって、社会的なイメージやニュアンスが変わることが期待できません。

家族や恋人、友人といった「大切な人」が亡くなったときに生じる感情を「グリーフ」と呼びますが、自責の念が含まれます。しかし、それは名称変更によって解放するものでしょうか。亡くなった人に向き合い、遺族自身がその後の人生を見つめることで、あるいは反対に、亡くなった人のことを日常的に忘れることで解放される人もいます。また、無理に解放することもないと思っています。

グリーフは人ぞれぞれであり、様々な形、タイミングでやってくるものです。そのわき上がる気持ちをサポートする社会、あるいは社会システムは必要だと思います。そのための「方便」としての名称変更で、遺族への配慮という意味では多少は納得できます。ただ、そのために「自死遺族」「自死遺児」という言葉がすでにあるのではないでしょうか。

[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]

NewsCafe

トピックスRSS

ランキング