生きづらさという言葉を問い直す

NewsCafe / 2013年4月10日 15時0分

「生きづらさ」という言葉がよく使われるようになって、どのくらいが経つだろうか。私が使い始めた1998年、今から15年前は、浸透しておらず、書籍や雑誌の編集者に対しても説明が必要だった。そのため、「生きづらさ」という言葉を使わないか、定義をしてから書いていたものだ。

いまではいろんな場面や文脈で「生きづらさ」が使われている。たとえば、発達障害やLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーといったセクシャル・マイノリティを指す言葉)との関連で語られたりする。この社会の"普通"と呼ばれる基準からは離れているため、差別や偏見、誤解を生じやすい。そのため、カミングアウトすることで仲間ができ、語り合うことで解消し、解決する方策を見つけていくといった動きが出て来ている。

私が「生きづらさ」という言葉と出会ったのは、「摂食障害」を患っている女性の取材だった。その女性が「私って、生きづらさ系だよね」と言っていたことから、私自身、好んで「生きづらさ」「生きづらさ系」を使っていた。当時、インターネットの世界では、特にメンタルヘルス分野では、「自殺系」「自傷系」「精神系」「メンヘル系」など、カテゴリ分けをするときに「~系」と使っていた。この時期、「自傷らー」や「メンヘラー」という言葉も生まれた。

当時、自殺未遂としての自傷をする人たちは「自殺系」、死ぬためではなく、生きるための自傷をする人たちは「自傷系」に分けられていた。女性は、生きたい気持ちと、死にたい気持ち、消えたい気持ちが日によって揺らいでいた。また、自傷をする人たちの中には、傷をサインとして他人に分かるようにしていた人もいる。しかしその女性は、見た目でわかるようなサインはない。「自傷系」に分類されることを嫌がり、弱さを明示することなく過ごしていた。

私は、援助交際や家出の取材から、自殺願望を持っていたり、自殺未遂をしたり、自傷行為をする人たちと出会った。ちょうど、援助交際をしている女性たちが「まったり系」から「生きづらさ系」に移行しつつある時期だった。なんとなくゆったりと過ごすための手段としての援助交際が、時代に受け入れられない女性たちが徐々に増えつつあったのだ。

そんな援助交際をしていた女性の中に、表面的には家族関係や友人関係がうまくいっているが、本質的には違和感を抱いている声を聞いていた。「良い子」として学校でも家庭でも見られているが、実は、そんな姿は仮面であって、なりたい自分は別にあるという人たちだった。ある女性は学校ではクラス委員をしながらも、プライベートでは社会的な規範から逸脱することでバランスをとっていた。そして、ときには「死にたい」という気持ちも同時に抱いていた。

そうした「生きづらさ系」の人たちは4月からゴールデンウィークの頃までは、人間関係がリセットされることを願い、チャンスをうかがっている。年度が変わり、クラス替えがあったり、進学や就職で環境が変化し、生きづらい自分を捨てようとする。まさにいまそうした時期だ。しかし波に乗れず、うまくリセットできない人たちも多い。それがGW過ぎによく現れる。

新聞や雑誌、ニュースサイトやブログ、リアルタイムメディアでは、様々な意味合いの「生きづらさ」という言葉が乱立している。もともと私は <精神科に通っていないか、通っていたとしても重い症状ではない人たち> をイメージしていた。しかし、精神科ユーザーが増え、敷居が下がったことで、そうしたイメージは崩れてきている。そのためもあり、社会的規範を前提にすると、コミュニケーションがうまく行かない発達障害との関連で使われることが多くなったのかもしれない。

ただ、私は「生きづらさ」という言葉は、障害のある・なしで左右するものではないと考えている。もちろん、障害があれば、その「生きづらさ」の形は見えやすい。しかし、障害がなくても「生きづらさ」の種はある。むしろ、後者の人の「生きづらさ」は分かりにくいため、理解されにくい。いまいちど、「生きづらさ」という言葉を問い直すことが必要ではないだろうか。

[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]

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