『ノートル=ダム・ド・パリ』の不思議なプレリュード

NHKテキストビュー / 2018年3月16日 17時0分

幾度となく映画やミュージカルなどに翻案されてきたヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』。いざ読み始めてみると、なかなか物語が始まらないことに読者は面食らってしまうかもしれません。しかし、この不可解な導入部こそ、『ノートル=ダム・ド・パリ』の構造を理解するカギであるとフランス文学者で、明治大学教授の鹿島茂(かしま・しげる)さんは語ります。

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全十一編からなる長編『ノートル=ダム・ド・パリ』の導入部である第一編は、オペラのプレリュード(前奏曲)に当たりますが、現代の小説を読み慣れた読者にとっては不可解なほどに長く感じられるはずです。のっけからモブ・シーン(群衆場面)が延々と続き、雑多な群衆の中から入れかわり立ちかわり現れる老若男女の野次と饒舌(じょうぜつ)な会話が繰り広げられますが、作者が読者をどこに連れていこうとしているのか皆目わからないため、困惑は強まります。舞台となっている元王宮のパリ裁判所はノートル=ダム大聖堂と同じくセーヌ川の中州のシテ島にあるので、ここが詳しく描写されるのはわかりますが、舞台や祭りの細密な描写、それにフランドルから来た洋品屋の親方の話などは、ストーリー上は不要なのではないかと感じる読者がいても不思議ではありません。
しかし、よく読んでみるとこの長すぎるプレリュードは、この小説自体がどのようにしてつくられているかという構造を、読者に開示しているものだということがわかってきます。
なかなか始まらない物語と同様、なかなか始まらない聖史劇の作者であるグランゴワールは詩人で劇作家という点で、小説の作者ユゴーと同じ職業の人物として設定されています。グランゴワールは最初、主人公の一人のようにも見えますが、物語が進むにつれてしだいに影が薄くなっていき、ときどき思い出したように顔を出すだけになります。物語は、群衆の中から次々に現れる人物たちによって、どんどん変えられていくのです。聖史劇が途中で挫折し、カーニヴァル的な民衆の祝祭に取って代わられたことは、この小説自体が一人の作者による「作品」であることをやめ、無数の匿名の作者による集団的想像力の働く磁場のようになることを暗示しているようです。
というような意味で、第一編は決して無駄な場面ではなく、小説の自己言及的構造をあらかじめメタ・レヴェルで提示しているものと解釈することもできます。一人の作者の作品と見えたものが、前近代的な集団的想像力の場となり、ついで、その混沌の中から近代的な自我をもった個人が少しずつ浮かび上がっていき、やがてそのキャラクターたちが激しい葛藤を演ずることによってドラマが発展していくという構造です。この構造の不思議さを理解しないとユゴーの小説は理解できません。
では、作者ユゴーはこのような構造をどうやってつくり出したのでしょうか。
ある意味、苦し紛れと言っていいかもしれません。
というのも、『ノートル=ダム・ド・パリ』は、出版人のゴスランと結んだ出版契約の期日までに書き上げなければならなくなり、窮地に追い詰められたユゴーがきっちりとしたプランもなく書き始めたことから生まれた傑作だからです。
遅々として進まないストーリーは「良いアイディアが浮かばない」というユゴーの気持ちを表しています。しかし、逆説的なことに、そうした自発性のない執筆が、精神分析の自動書記(頭に浮かんだことを脈絡なくとりあえず書き記していくこと)と同じ効果をもたらしたのです。すなわち、ペン先からこぼれ出た言葉の洪水の中からいくつかのテーマや登場人物のイメージが現れてきたばかりか、それらが、これまた精神分析でいうところの多元的決定(テーマ同士がニューロン〔脳の神経繊維〕のように結び合うことで結節点が生まれる現象)に似たような作用をもたらし、書き始めたときには思いもよらなかったようなさまざまなストーリーや登場人物がそれらの結節点から生まれてきたのです。この意味で、『ノートル=ダム・ド・パリ』はユゴーの無意識の中から出現した小説であると言っても決して間違いではありません。
■『NHK100分de名著 ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ』より

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