京都の鬼門を守る3匹の猿

NHKテキストビュー / 2019年9月7日 0時0分

都を京都に移した際、桓武(かんむ)天皇が最も願っていたのは都の平安です。災いから守るために「鬼門封じ」を徹底させました。魔物が集まりやすいとされる北東の方角に神社仏閣を建て、見張り役として、「裏鬼門の猿」を配置し、都に魔物が侵入しないようにしたのです。魔よけの象徴、猿は災いが「去る」ことにも通じます。京都の鬼門を守る3匹の猿について、京都先端科学大学人文学部教授の佐々木高弘(ささき・たかひろ)さんに教えてもらいました。

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都の鬼門、北東にある日吉大社には、強い味方がいます。神様のお使いである「神猿(まさる)」です。
なぜ、鬼門に猿かといえば、北東の艮(丑と寅の間)の反対側は南西の坤(ひつじさる/未〈ひつじ〉と申〈さる〉の間)なので、表鬼門に対して、裏鬼門の申(猿)を置くことで、災いを避けられると考えたのでしょう。さらに、日吉大社の神猿は、「魔が去る」「勝る」にも通じるといわれ、魔よけの象徴とされています。この神猿には、京都御所でも会うことができます。

京都御所は、元弘(げんこう)元年(1331)から明治(めいじ)2年(1869)まで、歴代天皇が住み、儀式・公務を執り行ったところです。
平安京遷都の際、天皇の住まいである内裏は、現在の京都御所よりも2kmほど西側にありました。400年以上の命脈を保ちましたが、安貞(あんてい)元年(1227)に焼失すると、それ以降は再建されませんでした。
14世紀になって、光厳(こうごん)天皇が里内裏(さとだいり/都の中の仮の内裏)の1つであった土御門東洞院(つちみかどひがしのとういん)で即位(1331)されると、そのまま常住されて御所となりました。18世紀の末になって、光格(こうかく)天皇は天明(てんめい)の大火(1788)で焼失した京都御所を、平安京造営時と同じ内裏に再建しようとしました。そのとき、問題になったのが、やはり鬼門です。
平安京を再現する場合、御所の築地塀(ついじべい)が都の北東に突き当たってしまうのです。そこで、北東の方角の塀を四角く欠いてつくることで、塀の角が鬼門の方角に当たらないように工夫しました。そして、当時の宮大工のアドバイスに従って、築地屋根の下に鬼門を鎮護してくれる猿を配置。比叡山延暦寺の守護神・日吉大社の神猿さんの仲間で、京都御所では、この場所を「猿ヶ辻」と呼んでいます。

京都御所と比叡山、日吉大社は、北東の鬼門ラインですが、この間に、魔よけの猿が実はもう2匹います。
1匹は、京都御所の近くにある幸神社(さいのかみのやしろ)の神像です。幸神社は桓武天皇が平安京をつくる際に、都の鬼門を守る守護神として創建したとされています。この神社の猿は、御所の猿と同じように正装をしています。
もう1匹は、幸神社からさらに北東に位置する赤山禅院(せきざんぜんいん)です。比叡山延暦寺の塔頭(たっちゅう)で、陰陽道の神様・泰山府君(たいざんふくん)を勧請(かんじょう)し、別名赤山大明神として祀っています。この赤山禅院の猿は、誰もが一目でわかるように、本堂の屋根の上から迎えてくれます。烏帽子(えぼし)はかぶっていませんが、御幣と神楽鈴を持ったユーモラスな姿が印象的です。
このように、北東の鬼門ライン上に守護として3匹の猿を配置し、ガードされている京都。京都市内を歩いていると、猿こそいませんが、鬼門の方角を削ったかのような建物が多く見られます。時代は変わっても、暮らしを守る心は都人の中にしっかりと育まれているようです。
■『NHK趣味どきっ! 京都・江戸 魔界めぐり』より

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