自分を消せない・消さない作家、大江健三郎

NHKテキストビュー / 2019年9月23日 17時0分

大江健三郎の『燃えあがる緑の木』では、登場するどの人物も本ばかり読んでいます。作家で早稲田大学教授の小野正嗣(おの・まさつぐ)さんは、「それらはすべて、彼らが登場する小説を書いている大江健三郎自身が読んでいる本なのです」と断言します。

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K伯父さんだけではなく、どの人物たちもみな大江健三郎の分身と言ってもよいのです。これほど自分を消せない・消さない作家も珍しいのではないかと思います。ふつう、そんな小説は面白くなさそうなのに、大江は面白い──だからフシギなのです。
それを言えば、それぞれの小説そのものが大江健三郎の分身とすら言いたいくらいです。そして作家自身が、そのような読み方を推奨しているように思えるのです。読書に没頭する総領事のイェーツの読み方について、サッチャンが言います。
総領事のイェーツの読み方は、露骨なほど伝記主義だったのだ。詩集そのものを人並はずれた語学力で丹念に読み通し・読み返すということをされているのも確かだったけれど、さらに目立つのは書庫にあったものから新しい出版まで、次つぎに評伝を読んでゆかれることだった。そしてイェーツの生涯と同時代の出来事に結んで解読された詩を、あらためて詩集に戻って書き込みを更新しながら読みなおし、総領事自身の言葉を使えば、初めて了解するというのが、繰り返されたルーティンだった。
サッチャンを通してこう書きつける大江自身が、みずからの小説にもそのような読み方が適用される覚悟ができていないはずはないと思うのです。
大江健三郎自身は、このような自己引用の書き方が完成したのは、『懐かしい年への手紙』だと考えているようです。『私という小説家の作り方』(新潮文庫)で、こう言っています。
『懐かしい年への手紙』への展開で、その後の私の小説の方法に重要な資産となったのは、自分の作ったフィクションが現実生活に入り込んで実際に生きた過去だと主張しはじめ、それが新しく基盤をなして次のフィクションが作られる複合的な構造が、私の小説のかたちとなったことである。この点において、私は日本の近代、現代の私小説を解体した人間と呼ばれていいかも知れない。
『私という小説家の作り方』というタイトルが意味深です。これは本当は、『私という小説の作り方』なのではないでしょうか──つまり「私」=大江健三郎という人間の人生を題材としたフィクションをどのように自分は書いてきたのかをお示ししよう、と。
「書かれた小説はすべてフィクションにほかならない」と大江健三郎が断言するとき、しかし読者の耳には同時に、「すべて書かれたものは自伝である」という南アフリカ出身のノーベル賞作家J・M・クッツェーの言葉もまた聞こえてくるかもしれません。大江がなんと言おうと、大江の作品が自伝的であることは否定できないと思うのです。だからこそ、大江はみずからの書いたものが、あまりにも自分自身の生と重なりあわないように、書くための方法論を意識せざるをえなかったのではないでしょうか。
あるときから、小説を書くことがあまりにも「私はこのように生きてきたのです」ということを示すことそのものになっているという事実に危惧を覚えていたからこそ、書き方=ナラティヴの問題にあれほどの関心を示したのではないでしょうか。その意味では、自分自身に近いKではなく、サッチャンという語り手──しかも両性具有者であり、女性の「声」で語っています──を設定したところにもまた、『燃えあがる緑の木』の挑戦はあると思うのです。
『燃えあがる緑の木』と同時期に書かれたこの『私という小説家の作り方』のなかで、ある時期から自分の作品が批評家と読者に受け入れられなくなった印象を持った作家は、それはすべて自分のせいなのだと語っています。「私はひたすら息子との共生と、それに結びついた自分の魂の問題を考えることにかまけていて、批評家という読者の代表への理解関係の道を開こうと工夫することはなかったのだから」と。しかし、大江はその後もその道を開こうとはしなかったと告白します。
むしろ、その逆だった。私はフィクション化への意図的な努力を放棄して、もっと具体的に息子との共生と自分の魂の問題──それが息子の魂の問題と深い根をつうじて結ばれることになるなら、それ以上の夢の実現はなかった──を小説に書くことをめざしたのである。
そうやって、ある特定の詩人─当時、大江はブレイクを読んでいたといいます──を読みながら、息子との共生の意味を深く考え、「自分の──また息子の─魂の問題についてスケッチしてみる」という書き方が、自然に生まれ、『新しい人よ眼ざめよ』という作品が生まれたというのです。
ブレイクを読みながら考えることで、息子との日々を新しく照射する光がきわだつことはしばしばあった。ブレイクを読み進むことで生活をみたしている私にとっての、その根拠も、息子との共生にあるのだった。私の日々の生活にブレイクが入り込み、私はまた息子の影を追いもとめてブレイクの預言詩(プロフェシー)のなかに迷い込むようにしているのを幾たびも自覚した。むしろその自覚の節目ごとを核としてかたまるように、短篇のそれぞれが結晶したのだった。
作品を読むことが、自分の実生活のなかにある出来事の意味を明らかにする。同時に、自分の人生における経験が、作品をよりよく理解することを手助けし、作品と自分の生とのあいだの有機的なつながりを深めていく─ここには読書の理想的なありようが示されていると感じますし、クッツェーにならって、あらゆる読書もまた、自伝的行為であると言いたくなります。
いま大江にとって、障害を持って生まれた息子の光さんとの共生、そして自分の魂の問題(それは同時に息子の魂の問題でもあるのです)が、彼の小説の核にあることを確認しました。『燃えあがる緑の木』では、魂の問題のほうが大きく主題化されているように見えます。しかし、息子との共生──息子と魂の問題を共有することでもあるでしょう──という大切な主題もまた、総領事とギー兄さんという父と子の姿を通じて描かれているようにも思えます。じじつ総領事とギー兄さんとの関係は、『燃えあがる緑の木』というひとりの「救い主」の受難の物語の展開に、きわめて大きな役割を果たすことになるでしょう。
■『NHK100分de名著 大江健三郎 燃えあがる緑の木』より

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