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「メッセージよりもスタイルが大事」 若者たちの"お祭りデモ"とは 愛知淑徳大・伊藤昌亮准教授<インタビュー「3.11」第4回>

ニコニコニュース / 2012年3月4日 11時20分

愛知淑徳大学メディアプロデュース学部の伊藤昌亮准教授

 東北地方に甚大な被害をもたらしただけにとどまらず、全国に大きな影響を及ぼした東日本大震災から、2012年3月11日で1年となる。東京電力福島第1原発の事故をはじめとした問題の多くは未だ解決しておらず、震災前と震災後とでは、ライフスタイルから精神面までも変化したようにさえ思える。

 その「変化」の中でも目立つことの一つとして、原発再稼働反対や原発廃止を訴える「脱原発デモ」が活発な現状が挙げられるのではないだろうか。Twitterなどのソーシャルメディアを介して呼び掛けられるデモには若者も多く集まり、大音量のサウンドを流しながらパフォーマンスをする「サウンドデモ」などの新しい形態でも注目された。

 日本の未来を担う若者たちは、新しいデモに参加することで何を目指し、何を得て、どこに向かおうとしているのか。『デジタルメディア論』や『文化運動論』などを専門にしている愛知淑徳大学メディアプロデュース学部の伊藤昌亮准教授に「若者とデモ」について聞いた。

・東日本大震災 3.11 特集
http://ch.nicovideo.jp/channel/311

(聞き手:古川仁美)

■新しいデモはメッセージを伝えることが目的ではない!?

――まずは、東日本大震災及び福島第1原発事故以降に起こった「脱原発デモ」の概要と特徴を教えてください。

 最初は、2011年4月10日に東京・高円寺で1万5千人が集まるデモが起きました。3月の終わりに『素人の乱』(高円寺を中心に展開しているリサイクルショップや飲み屋などの店名)の松本哉氏が「デモをやろう」と提案し、その情報がTwitter上で流れ、それが日ごとに増えていきました。4月に入ったところで、Tumblr(タンブラー、ミニブログサービスの一種)でサイトが作成され、賛同者を集めました。つまりTwitterによる「拡散」とTumblrによる「集積」ですね。ネット戦略がうまかったんでしょう。

 こうして、高円寺で「新しいデモの形」が成立しました。その後、同じく『素人の乱』主催で5月に渋谷、6月に新宿でデモがありました。ともに若者が中心の、一種の野外ライブのような「サウンドデモ」という新しい形のデモですね。

 このようないわゆる「お祭りデモ」の系譜自体は、もともと1990年代のイギリスあたりからあったんですが、今回はソーシャルメディアを効率的に使った点で集客力がすごかったんでしょう。今までのデモでは、団結させる人が存在して、人々は「モビリゼーション(動員)」されることによって参加していました。だけど、今のデモは「コラボレーション(合作)」なんですね。立ち上げられたサイトに色々な情報が集積していくのと同じように、人々はデモの現場にも色々なものを持ち寄って、コラボレートして、一種の表現活動をしているんです。

 表現というのは、「原発反対!」という意見表明だけではなくて、音楽やファッション、プラカードやポスターなども含めた、本当の意味での「表現」。デモが集合的な「表現の場」として成り立っているんです。そこに持ち寄られるのは、「原発反対!」という政治的な意見だけでは必ずしもなくて、ライフスタイルや感覚・感情・好みといったものも集めて「ユニークな表現体を作る」というノリだったと思うんですよ。それがすごく新しいし、面白い現象でした。

――震災後に起こったデモは「お祭りデモ」だけではありませんよね?

 今話したデモをきっかけに日本中にデモが広がり、半年ぐらいの間に200回以上のデモが行われました。その中に『原水禁』(『原水爆禁止日本国民会議』の略称。1965年結成の反核・平和運動団体)が企画したデモが9月にあって、これはノーベル賞作家の大江健三郎氏らが発起人になって、5万人ぐらいが集まった大規模なものでした。このデモは、どちらかというと伝統的なタイプのデモでしたね。市民運動団体が企画して、参加する人も年齢層が比較的高め。ちゃんとしたメッセージを届けるためのデモです。

 最近のデモには今挙げたような「市民運動型デモ」と「お祭りデモ」があると言えるでしょう。極端な話をすると、「お祭りデモ」ではメッセージよりもスタイルが大事。もともとデモはメッセージを伝えるためのメディアだったんですが、「お祭りデモ」はメディアそのもの、つまりデモのスタイルそれ自体がメッセージになっています。

 こういうことを言うと誤解を招くかもしれませんが、「お祭りデモ」における「原発反対!」というメッセージは、そうしたスタイルを表現するための一つの「きっかけ」みたいなものかもしれません。つまりスタイルの表現がライフスタイルの表明につながり、それ自体がデモの本質的なメッセージになっている。原発問題はそのためのきっかけだということです。

――「原発反対!」というメッセージよりもスタイルに重きを置いているとすれば、デモに参加している若者たちはそのことを自覚しているのでしょうか?

 当たり前のこととして、自分たちの感覚に応じてやっているから、特別言葉にする必要がないんじゃないですかね。これまでの市民運動では、デモではいかにメッセージを強く訴えるかが問題とされていました。だから最近の「お祭りデモ」を批判する人は「大音量で音楽を流すようなやり方ではメッセージが伝わらない」「メッセージがはっきりしていない」と言うんですが、これはおそらく批判の論点が間違っていて、「お祭りデモ」ではメッセージを伝えることが眼目ではなくて、スタイル自体がメッセージなわけです。そこに本質的な新しさがあります。

 これまでは、「特定のメッセージを打ち出すことによって社会を変えていこう」というはっきりした目的があって、その前提には、きちんとした「社会」がシステムとして成り立っているという認識がありました。「システム」対「市民」という構造があって、「自分たちは『市民』の側にいて『システム』を変えるためにメッセージを届ける」のがこれまでのデモでした。

 今のデモでは、自分たちの「市民」としてのアイデンティティを強調することはあまりないし、自分たちが対峙する「社会システム」も、あまりしっかりと成立したものとして捉えていません。システムを信頼してもいないし、市民としての既存のアイデンティティに安住してもいない。今のデモは、既存の社会とは別に、自分たちで新しい社会を作っていこうとしています。そのために自分たちのアイデンティティを持ち寄って、練り上げて、そこに自分たちのスタイルを通して、新しい社会を創造していこうというノリがある。極端に言えば「原発反対!」もそのためのきっかけであって、「原発みたいなものがない社会を創り上げていく」というヴィジョンの起点になっているんですよね。

 つまり既存のデモと今のデモの違いは、「市民」というアイデンティティや、社会システムの「確かさ」を若い人たちがそんなに感じていないというところにあります。「社会システムを変える」なら、変える対象として、そもそもしっかりしたシステムがなきゃいけない。だけど「社会システム」は信用できないものになっていて、特に地震によってボロボロになってしまった。そのときに、「変える」というよりもむしろデモという「祭りの場」「集合の場」を通じて、新しい社会性を「創り出す」ことの方が大事になったんです。だから「変える運動」ではなくて「創り出す運動」だと思うんですね。

■新しいデモは「小さな社会を自前で創る」ことを目的としている

――変える対象としての「社会システム」が、そもそもあてにできないものだと気付かせたのが震災ということでしょうか。薄々気付いていたけれど、震災が起きたことで決定的になったということですか?

 そうだと思います。かつて60~70年代にデモが流行ったときは、政治的にも経済的にも、日本や世界のシステムがどんどん完成していった時代でした。ところが90年ぐらいから、日本ではバブルが崩壊して経済システムがボロボロになり、同じくらいの時期に政治システムとしての『55年体制』も崩れました。90年代以降は、システムが崩れ落ちていく様子を皆が目の当たりにしているんです。

 そんな「日本という国のシステム」自体が信頼できない感覚がある中で、震災が起き、決定的にそのシステムが壊されてしまった。あたふたしている政府の姿が見えたり、あるいは自分たちが信頼して「確固たるシステム」だと思っていた東電のやり方がとんでもないものだったと分かったりと、社会システムがあてにならないという「事実」を突きつけられました。

 そこで新しい社会システムや市民アイデンティティを創り出していこうという動きが、そのプリミティブなかたちとして、自分たちのスタイルや感情を持ち寄る新しいデモのスタイルに出ていると思うんです。これは、まさにアメリカで起きている「ウォール街を占拠せよ」とまったく同じ構造です。

――ウォール街デモと日本のデモは、どのような点で同じなのでしょうか?

 ウォール街デモは、一見はっきりとメッセージを持っているように見えますが、よく言われているのは「何がやりたいのか分からない」ということです。「我々は99%だ」と彼らは言っているんですが、だからどうしろとは主張しない。彼らがやったのは、ウォール街の近くにテントを張って、そこで共同生活の場を設け、自分たち独自のシステムを創ることでした。

 たとえば『ジェネラル・アセンブリー(総会)』という自分たちだけの集会をして討議のやり方を決めたり、自分たちでレストランや図書館まで開いたり、ウォール街という巨大な社会の片隅に「小さな社会」を自前で創っていったんです。その「社会を自前で創る」ということ自体が、「自分たちで1から創り出すんだ」という彼らなりのメッセージなんですね。

 だから「彼らにメッセージはない」という批判もやはり間違っていて、個別のメッセージよりも大事なメッセージが彼らにはあるんです。同じことが、日本とアメリカで起きています。そして、アメリカで起きた運動の元となったのは、『インディグナードス』というスペインでの運動なんですが、スペインでは若者の失業率が50%近い状況で占拠運動をやり、公園で寝泊まりして、新しく社会を創っていこうという運動を国中の若者がやったんです。

 そんなふうに全世界的に社会システムがあてにならなくなってきている中で、若い人たちが独自に「自分たちの社会」を創ろうとしている。そのきっかけをデモに求めているんです。それが新しいデモのあり方であって、そのツールになるのが音楽やダンス、グラフィティやファッション。スタイルそのものから、自分たちのアイデンティティを集合的に創り上げて、社会を創り上げるという、大きな共通性と趣旨がそこにはあります。

――日本とアメリカとスペインとでは、デモに参加している若者たちの年齢層も同じなんでしょうか?

 ウォール街デモに関しては調査した人がいて、それによると平均年齢は33歳でした。ただ最初の2週間ぐらいは、ほとんどが20代のもっと若い人たちだったようです。運動が進むに連れて40代とかもいる状況になりました。

 日本も、少なくとも『素人の乱』のデモを見てみるとやはりそれぐらいの年齢ですね。ただしその後『原水禁』のデモがあり、運動が広がっていくと、かなりバラつきが出ています。20代ぐらいの人たちと60代ぐらいの人たちの二極化現象が起きていて、両者が入り交じっているデモもあれば、別々になっているものもあるみたいです。若者グループはサウンドカーを使って、大音量で踊ったりしている。一方で、中年以上のグループはシュプレヒコールをする。それぞれ違うスタイルです。

 だから融合しているのか分離しているのか分かりにくいですね。若い人たちが見ている「社会」と中年以上の人たちが見ている「社会」は違うので、運動の眼目も違います。中年以上は「社会を変えよう」としている。若者たちは「社会を創ろう」と思っています。これは同じようでいて、ずいぶん違います。

■システムを「敵視」することで連帯を高めている側面も

――日本で「脱原発デモ」に参加している若者たちは、具体的に「敵」を想定していると思いますか?

 旧来の「市民運動型デモ」にとっては「システム」自体が敵でした。端的には「政治システム」と「経済システム」のことです。それは国家によって担われている「政治・経済の連合体」。今回の福島第1原発の事故で言うと、国家の名の下で経済産業省と東電、つまり政治と経済が結託して作っていた「システム」が、「市民運動型デモ」にとって敵だったことは間違いありません。

 「お祭りデモ」、つまり若い人たちのデモも、一応システムを名目上の敵にしているとは思うんですよね。しかし本質的な敵ではないというか、「敵とすること」によって、逆に自分たちの社会性を強めていっているんじゃないでしょうか。「お祭りデモ」の眼目は、敵をどうこうするよりも、自分たちの結束や連帯を高めることにあるという気がしています。

――「社会を創り出す」ためには、まず自分たちが結束する必要があるからですか?

 そうです。本当に「敵」だと思っているのであれば、もっと敵のことを研究すると思うんですが、そういうこともそれほどはしないようです。「敵じゃない」ということではないんですが、そこで掲げられている敵は、やっぱりかつての「市民運動型デモ」の場合とは違うと思います。自分たちの結束・連帯を高め、社会を構築していくためのきっかけとして「敵」が設定されることもあるのかもしれません。

 「フジテレビ抗議デモ」は、そういう意味で興味深い現象です。「脱原発デモ」と構造的には同じだと思うんですよね。もちろんそこには、高円寺的なものと秋葉原的なもの、みたいな、文化資源上の差異、つまりスタイルそのものの内実的な差異はあるとは思うんですが。でもやっぱり両方とも、自分たちが自分たちのスタイルで社会を創りたいという欲求がある。

 「フジテレビ抗議デモ」には二面性があって、その一つには「マスメディア」に対する問題提起が根底に置かれています。マスメディアに支配されている社会に対する「告発」という側面が強く、これはやっぱり「社会運動」的なものでしょう。原発に支配されている社会に対する告発と同様のものです。

 一方で、フジテレビやそのスポンサーである花王を一種スケープゴート(マイナスな感情を逸らすための身代わり)的に取り上げて、自分たちの側の社会の結束を強引に作り上げていく、極端に言うと「プチファシズム」的な側面もないわけではない。

 でも、こういう二面性はどんな社会運動にもあります。脱原発デモであれウォール街デモであれ、一歩間違えるとカルトになってしまう。自分たちで社会を創り上げようとして、その社会性を絶対視するとファシズムになりますから。東電やニューヨーク証券取引所だって、もしかしたら一種のスケープゴートにされているのかもしれない。「フジテレビ抗議デモ」には、その二面性が分かりやすく出ていると思います。

■新しいデモで世界は変わるのか

――メッセージを掲げて「デモ」に集まる若者たちが、集合することによって逆にその目的を見失ったり、彼らの中で変化が起きたりする可能性もあるのでしょうか?

 「集合的沸騰(集合することにより興奮や高揚、激昂状態になること)」が起きて、その中で「社会性が幻視される」と思います。その幻視みたいなものから実際に社会を構築していくことも起きてくるでしょう。たとえば、ウォール街では9月に運動が始まった後、11月にデモ隊のテントなどが撤去されたんですね。でも撤去されて運動がなくなったかというとそうではなくて、ネット上でまだ運動をやっているんです。『ジェネラル・アセンブリー』もワーキング・グループもそのままネット上に移行して、サイト内で議論が続いています。

 デモの「集合」の中で「新しい社会が見えた」という幻視、一種の至高体験をしたとき、その至高体験が日常の中で別の形をとり、広がっていくこともあるでしょう。デモに参加することで高揚を得て、幻として一種の社会像を垣間見た人たちが、日常に帰って新しい価値観を提示していく。それが色々な場所で小さな実践として積み上がっていくと、本当に世の中が変わるんだろうなと思います。

――「幻視」とは「夢を見ていること」とは違うのでしょうか?

 夢を見ているというか、「幻として垣間見る」こと。新しい社会の仕組みなんて、創ろうとしてもなかなかはっきり見えないじゃないですか。それを、デモをする際に皆で集まって、そこで「理想が見えた」と思うこともあるでしょう。デモそのものはシンボリックなものだと思うんですが、そこで得られる感情を日常の中で分散しながら実践していき、それらが繋がっていくと本当に社会が変わるんだろうなと思います。

 その感覚を忘れないうちにまた集まって、デモをやって、維持していく。デモという「象徴」と、その背後にある「日常」との往復運動を繰り返していくことで、新しい価値を見つけていくんです。

――現在でも続いているデモでは、デモをすることで得られる感覚を確認して強めることが目的になっているということですか?

 当人たちは、もちろん「原発反対!」ということでやっているんだと思いますが、デモの場で確認して確信したものを日常に持って帰って、それが枯れる前に皆でデモをして集まって、確かめ合う行為は必要になるんじゃないでしょうか。エネルギーや高揚体験、政治的なものになる前の、感情的なものだったり文化的なものだったりする新しい価値。それを世の中に持って帰った人たちが、会社を創ってもいいわけですし、NPO(非営利団体)を立ち上げてもいいわけです。仕事を含めて、日常で新しい価値を広めていくことです。

 『デュアルパワー(二重権力)』というレーニンの言葉があります。ウォール街デモの人たちもよく使う言葉なんですが、要するに、既存の権力を打ち負かすことが「革命」なのではなく、むしろ別の「力」を創り上げていって、その既存の力と新しい力が「二重」にある中で、「新しい力」が強くなっていけば、新しい力の方向に否応なく世の中が変わっていくということです。

 長い革命をするための戦略論だったんですが、ある意味で、その「新しい力」を創り上げていくためのシンボリックな集いが「デモ」なんだと思います。デモの中で承認し合ったものを皆が持ち帰れば、既存の国家や組織は打ち倒されるというよりも、どうでもいいものになっていきます。そこまで「新しい力」を強めることは相当大変なことだとは思いますが。

 新しい力を勝手に創り上げていくことを実践しているのが、ウォール街デモの人たちなんですが、でもそこにはやっぱり危険があって、極端な方向にいけば『オウム真理教』みたいになってしまいます。可能性もあれば危うさもあるのですが、そういうことをやっていかないともう仕方ないんじゃないでしょうか。アメリカでもヨーロッパでも日本でも、あるいはアラブ諸国でも、そういう模索をしていかないと立ち行かないところまで来ています。

 どんな社会運動でもそうですよね。フランス革命でも、ロシア革命でもそうでした。まったく新しい社会を創り上げようとすると、それが急進的に変な方向にいってしまうのは何度もあったことです。社会を創ることには付きものの「怖さ」というか、危険性です。「だから社会を創ることはダメか」というと、そうなると何も創り出せないので、時間をかけてゆっくりとやるしかありません。

――危険な方向にいく可能性もあるが、その先に新しい社会が生まれるということでしょうか?

 危険な方向にいってしまうとそこで終わりだと思います。そんなふうに終わってしまった運動はたくさんありますから。変な方向にいってしまうものもあれば、持続的に広がっていくものも生まれるんだろうということです。ただその出発点にあるのは「集合的沸騰」であって、それが今起きているんでしょう。

――今の若者たちは「出発点」に立っているんですね?

 そうです。出発点にいて、この高揚感や、何かを創り出せるという自信、そのきっかけになる新しいライフスタイルを提示する感覚、新しい価値のあり方の雰囲気などを持っていて、それらがこれから広まって、あるいは行き詰まり、展開していくんだと思います。

■ネットが新しい社会の「見取り図」になる

――それでは最後に伺いたいのですが、その「出発点」に立つ若者たちは、「新しい社会」を創るために何をしていけばいいのでしょうか?

 「新しい社会」を構築していく中で、その社会のプロトタイプ(原型・先がけ)としてあるのが、ソーシャルメディアだと思います。「ソーシャルメディア」は、「ソーシャル」というぐらいですから「社会そのもの」ですよね。ソーシャルメディアから今の社会運動が発生しているのはどこの国でも同じで、そういう意味ではソーシャルメディアが運動の起点であるとともに、そのあり方を実現していくひとまずの到達点にもなるでしょう。今のソーシャルメディア、2ちゃんねるやニコニコ動画、TwitterやFacebookを含めた新しいメディアの世界で、どういう社会を創り上げていくか、何を大事にしていくかということが、おそらく次の社会の見取り図になっていくんじゃないでしょうか。

 まずはソーシャルメディアの中に自分たちの「社会性」みたいなものの核を作って、それを一つのプロトタイプとして社会全体を考えていくことができるでしょう。ただし、ソーシャルメディアがひとまずはヴァーチャルな場ということもあって、極端な方向に走りやすいので怖いと言えば怖いですが。スペインの運動も、最初はネット上に拠点が作られたんです。ウォール街デモも今ではネット上の運動になっていますし、世界中で暗躍しているハッカーグループ『アノニマス』もネット上のものですよね。ネット上を起点として、世界的に運動が動いています。

 そう考えると、「新しい価値を日常に持って帰る」のも、デモから持って帰る直接的な行き先はネット上の空間かもしれません。ネット上に新しい価値を持って帰って、色々なものをそこに創り上げていくんです。ユーザーとして創り上げていくだけではなく、エンジニアとして関わることもあれば、あるいは新しいメディアを立ち上げることもあるでしょう。ネット上の空間でどう振る舞って、どうやって意見形成をして、どんなふうに対立を解消していくのかといったことが、新たな社会を創出していく上では大切なのではないでしょうか。

(了)

■伊藤昌亮(いとう・まさあき)

 1961年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。外資系IT企業、出版社勤務などを経て、愛知淑徳大学メディアプロデュース学部准教授。専門はデジタルメディア論、文化運動論など。著書に『フラッシュモブズ――儀礼と運動の交わるところ』(NTT出版)などがある。

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