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9歳で亡くなった姉 84歳の弟「生きた証残せる」 遺骨や写真なく、かすかに残る記憶と一枚の戸籍頼りに刻銘

沖縄タイムス+プラス / 2023年6月14日 7時0分

姉の米子さんを思い、目を潤ませる知念榮一さん=5日、那覇市内

[戦後78年] 平和の礎に刻銘 新たに365人追加 那覇の知念榮一さん

 沖縄戦などの戦没者の名前を刻む糸満市摩文仁の「平和の礎」。2023年度は新たに365人(県内24人、県外341人)が追加刻銘されることになった。「これで生きた証しを残せる」。戦後78年。遺族から安堵(あんど)の声が漏れる。

 戦争当時、6歳だった知念榮一さん(84)=那覇市=は、すぐ上の姉の米子さん(当時9歳)が刻銘される。「やっとです。安心しました」。戦場ではぐれたままになった姉を思い、涙を拭った。

 毎年「慰霊の日」には礎に足を運び、祖母ツルさんや父武勢(ぶせい)さんの石版に手を合わせている。米子さんの名前がないことが気がかりで何度か申請しようとしたが、果たせていなかった。

 幼かったため、戦時中のことはほとんど覚えていない。残された資料は、本土に戦前渡った叔母が持っていた戸籍謄本のコピーだけ。当時13歳だった4番目の姉の政子さん(91)から話を聞き、ようやく申請にこぎ着けた。

 首里で酒屋を営んでいた知念さん一家。榮一さんが生まれて間もない頃に母は亡くなり、2人の兄は戦前に大阪府へ渡って軍事工場で働いていた。

 戦火が激しくなる前に家族で疎開船に乗り込んだものの、祖母のツルさんがいないことに気付き、家族そろって首里に戻った。その後、戦場を逃げ惑う中で家族はばらばらに。米子さんは真嘉比付近で爆弾の破片に当たり、即死した。一緒にいた政子さんたちは逃げるのに精いっぱいで、米子さんをその場に置いて離れるしかなかった。

 榮一さんは道端に座り込んでいるところを、通りがかりの人に手を引かれて逃げたらしい。戦後、孤児院にいた時に政子さんと再会。本土から戻ってきた兄に引き取られて首里に帰った。

 亡くなった家族の遺骨も、家族写真も残っていない。読書好きな米子さんから本を取って、追いかけられた思い出だけがかすかに記憶にある。「戦争でこんなつらい思いをしたくなかった」。慰霊の日には政子さんと一緒に礎で手を合わせるつもりだ。

 本島北部で戦争を経験した妻の文子さん(82)は「残っている資料が少なくて不安だったけど、この世に生まれた証しを刻めてほっとした。少しは供養になるのかな」と語った。(社会部・當銘悠)

 

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