磯部正文(HUSKING BEE)- Key Person 第12回 -

OKMusic / 2021年2月20日 12時0分

■“強く生きよう”という想いを 感じるものが僕にとってのパンク

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第12回目は結成以来、日本のパンク/メロコアシーンを走り続けるHUSKING BEEの磯部正文(Vo&Gu)が登場! 初めてテレビで観たTHE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」や、ライヴハウスで観たHi-STANDARDに衝撃を受け、自分なりに見つけた“パンクとは?”の答え、そして学生の頃から憧れ続けているキーパーソンを語ってもらった。

■テレビで観た「リンダリンダ」の 衝撃は凄まじかった

──1994年に結成されたHUSKING BEE(以下、ハスキン)ですが、どんな流れでバンドを組んだのでしょうか?

「91年に“東京で音楽をやるんだ!”って決めて上京したんですけど、最初は友達の作り方も分からなかったんです。自分が好きだったのはハードコアやジャパコア、ミクスチャーのバンドなので、新宿のANTIKNOCKや千葉LOOKとかに行ってたんですけど、好きなバンドが解散してしまうこともあって、“次は何を観よう?”って分からなくなった時に音楽雑誌『DOLL MAGAZINE』を読んで、そこで友達募集をしてみたり。」

──バンドのメンバー募集ではなく?

「メンバー募集のコーナーもあったんですけど、その時はまずは友達募集だと思って(笑)。そこで同じ広島出身の人と仲良くなり、だんだん一緒にライヴハウスに行く中で“Hi-STANDARD(以下、ハイスタ)っていうすごいバンドがいるぞ”って噂を聞いて、初めて観に行ったら度肝を抜かれました。“この人たちは絶対に世界を変える!”と思いましたね。ハイスタがライヴをしている光景は、僕が通っていたライヴハウスと全然違うように観えましたから。ライヴハウスのお客さんは男子が多いはずなのに、そこでは男女半々くらいで楽しんでいるのにもびっくりして。それこそ自分が求めていた音楽というか、ライヴハウスシーンというか、そういうのを感じて自分もバンドをやろうって決意したんです。その頃から自分が遊びに行くライヴハウスで毎度顔を合わす人も増えていき、周りの友達が始めたバンドも観に行くようになった時に知り合ったのがベースのテッキン(工藤哲也の愛称)で。“ベースが弾けるなら一緒にバンドやろうよ”みたいな感じでメンバーを集めて…ハスキンの結成当時は別でヴォーカルがいたので僕はギターコーラスだったり、正式メンバーって感覚もなかったけど、とにかく“やってみよう”ってバンドを始めたんです。」

──磯部さんが初めて作った曲は「ONLY WAY」ですが、初めてメインで歌ったのはどの曲なんですか?

「初めてヴォーカルとして歌ったのも「ONLY WAY」です。僕以外のメンバーで曲を作ってる人もいなかったから、自信があるわけじゃなかったんだけど「ONLY WAY」のメロディーを伝えて作って。その一曲と、他の曲はGreen Dayとかのカバーをして下北沢屋根裏に出ていました。」

──ご自分で作った曲を歌うのと、他の方が歌うのではまったく感覚が違うと思いますが、どうでした?

「最初はライヴハウスにも出たことがないし、“もうちょっとこんな感じで歌ってほしいな”くらいに思っていたのが、だんだんコーラスとしてライヴハウスで歌うことにも慣れてきて、“もっとこうして歌ってくれ!”と思うようになってきたんですよね(笑)。やっぱり自分がメインを張りたいって気持ちを当時のヴォーカルに伝えて、自分で歌うようになりました。」

──実際にメインを張るようになってからはいかがでしたか?

「当時を振り返ると右も左も分からないことが多かったので、“とにかくやらなきゃ!”って感じだったんです。どんどんやって経験していかないと何も変わらないと思ってたから、歌っていて気持ちいいというよりもおっかなびっくりでしたね(笑)。バンドやりたいがために必死でした。それから自信がつき始めるまでに2年くらいかかったので、それまではひよっこもひよっこで、ちょっと押せばすぐ倒れるような感じだったと思います(笑)。」

──ハイスタのライヴも磯部さんにとっての大きな転機になっていると思いますが、そもそもパンクに惹かれた理由は何だったんですか?

「広島にいた頃に『ミュージックトマト』っていう音楽番組があったんで、中学の頃に親が寝静まってから観てたら《ドブネズミみたいに~》って始まって、“何これ!?”って。初めてテレビで観たTHE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」の衝撃たるや、凄まじかったのなんの。パンクっていうものはもっとあとに知るんだけど、すごい音楽があるんだなと。そこからTHE BLUE HEARTSを好きになり、BOØWYやユニコーン、JUN SKY WALKER(S)やアンジーといろんなバンドを好きになったけど、僕は自分の好きなものにいつもパンクを感じてたんですよ。当時はインターネットや携帯電話が生まれることも想像してなかったから、“パンクとは何か?”なんて語り合うことはなかったんだけど、上京してからは“パンクとは〜”って書かれたファンジンを読んで“パンクって精神なの!?”と思ったり。友達に“磯部が思うパンクって何?”って訊かれても“分かんねえなぁ”としか答えられなくて、ファンジンを読んでも“こんなに堅苦しいことなのか?”って余計に分からなくなるし、“パンクはこうだ!”って枠に当てはめなきゃいけないんだったら、“そんなのはパンクじゃねえじゃん”って思うんだけど、そのパンクじゃないって思う理由も説明できなくて。」

──それから答えは見つかったんですか?

「それでも決めなきゃなって思ったのが95年くらいかな? “パンクって何だ?”って訊かれたら答えられるようにしておかないと今後はダメだと思って、『GRIP』(1996年発表のアルバム)が出る前には決まってたんだけど…言ったほうがいい?(笑)」

──ぜひ聞かせてください!

「僕にとってのパンクは“強く生きよう”という想いが作品から感じられるもの。それが自分にとってはパンクだから、絵でも、映画でも、ドラマでも、ドキュメントでも、何でもそう。岡本太郎さんの絵とか音楽にかかわらず、それを感じるものは自分にとっては何でもパンク。それ以外に何もない。」

──パンクから受けた衝撃は大きなものだからこそ、言葉にするとまとまってしまうのかなと思ってたんですけど、今、その答えを聞いたらすごく広いものに感じました。その後、96年にはPIZZA OF DEATHよりハイスタの横山 健さんのプロデュースで1stアルバム『GRIP』をリリースし、98年には2ndアルバム『PUT ON FRESH PAINT』でトイズファクトリーからメジャーデビューされて、どんどん環境が変化していきましたよね。

「環境は目まぐるしく変わっていったけど、若いから身体もバリバリ動くんですよ。気持ち的にはジャンプしたら何でも飛び越えられるようだったし、今だったら“怪我したら困るな”って考えることでも、当時は関係なかったですからね。」

──“怖いもの知らず”と言ったらあれですけど、そのくらいの自信と心意気があったからこそ、あまり変化は感じていなかったんですか?

「変わったことと言えば、最初はSNUFFY SMILEってレーベルから1,500枚のアナログレコードを出させてもらったんですよ。“1,500枚も買ってもらえたら、必ず友達ひとりには聴かせるはずだから3,000人が聴くってことだぞ! 凄くね!?”って言ってたんですけど、その頃から本当にライヴハウスに友達以外の人が来てくれるようになって、“なんかファンみたいな人がいるぞ!?”と思って“ファンなんですか?”と訊いたりして(笑)。とは言っても友達とも近い人だから、友達のようなファンのような感じだったんですけど、だんだんチケットがソールドアウトするようになって、少しずつ状況が変わるのが自分にとっては全部奇跡みたいなことだったんです。ただ、変わっていく中でも“健さんにプロデュースしてもらったんだから当たり前じゃん”っていう気持ちもありました。『GRIP』が作れたのも健さんのおかげだし、“健さんにやってもらうんだ!”って頑張ってたからこそ、その変化は当然だっていうのはありました。」

■みんなを元気づけたいという 使命感にも助けられた

──2000年には平林一哉さんの加入で4人編成になり、04年にリリースしたアルバム『variandante』は全曲が日本語の歌詞だったりと変化もしながら“ハスキンらしさ”を作り上げてきたわけですが、バンドが変わっていくことや他の人から意見をもらうことには前向きだったんですか?

「本当につまらない男なんで、すぐ人に影響を受けるんですよ。だから、日本語で歌い始めたのも『PUT ON FRESH PAINT』を録るためにロスに行って、プロデューサーのマーク・トロンビーノに出会うんですけど、そこで“まともにしゃべれないのに、なぜ英語で歌ってるんだ?”って言われて“あぁ、本当にそうだな”と。空いてる時間に日本語で好きな曲を歌ってたら“日本語で歌ってる時の声量のほうがいいから日本語で歌う曲を聴いてみたい”と言われ、最初は日本語で歌うのは恥ずかしかったんですけど、ごねてもだんだん流されるから日本語の曲を作ったんですよね。それからeastern youthの吉野 寿さんや渋谷陽一さんにも勧められて、04年くらいには日本語で歌う面白さに染まってたんです。“日本人なんだから日本語で作るんだ”っていうチャレンジ意識も芽生えたんですけど、そうなると不思議と“何で英語で歌わないの?”っていう人も出現して、人って欲深いってことも分かったりしました(笑)。」

──05年に一度解散し、ソロプロジェクトのCORNERやMARS EURYTHMICSの結成もあって、当時は“HUSKING BEEとは違うことをやろう”という意識もあったそうですが、ご自分にとってどんな時期でしたか?

「めちゃくちゃ重たかったかな? “苦しかった”とか“つらかった”とは言いたくない。言葉にしたいのは“身も心も軽くなかった”ってこと。止めたくて止めたわけじゃなく、止めざるを得なかった…でも、音楽は好きだからやりたくて、正直に言うと音楽をやることでしか音楽を好きでいられない感じにもなっていたし。ハスキンと違うことをやらなきゃって思っても、やればやるほど気持ちが軽くなれない。今思うと当時のメンバーには申し訳なくて、なかなか言葉で表現するには難しいです。」

──12年2月に行なわれた『DEVILOCK NIGHT FINAL』でHUSKING BEEを再結成、同年9月の『AIR JAM』は本格的な再始動を発表されましたが、その時はどんなお気持ちでしたか?

「まだ迷ってたし、今とは全然違いますね。ハイスタの3人からもそそのかされて…いや(笑)、本当に背中押してもらってね。“みんな、ハスキンが聴きたいと思うよ”って言ってくださったけど、“本当なのかな?”って思ったりもしましたし、最初は“まぁ、やってみますけど…”っていう気持ちではありました。」

──それから徐々にHUSKING BEEで音楽を届けていくという想いが強くなっていった?

「時間はかかってますけどね。東日本大震災があったあとで、みんなを元気づけたいって気持ちもあったから、その使命感に助けられたところもありました。11年に横浜スタジアムでの『AIR JAM』に磯部正文バンドで出演させてもらったあと、ハスキンで12年2月の『DEVILOCK NIGHT FINAL』、4月の『BAD FOOD STUFF』Zepp Sendai公演に出させてもらった時に、“せっかくやるなら全国のライヴハウスを回ったほうがライヴハウスのためになる”って思えるようになったので、その使命感も徐々に湧いてきて。それこそ最初の頃の“何か分かんねぇ”っていう感じに近いものがあって、その年の『AIR JAM』の前日は眠れなかったです。そのわりには声が出たんですけど(笑)。プレッシャーも大きくて、あれ以上の気持ちは今までないかな?」

──そんな磯部さんにとってのキーパーソンはどなたでしょうか? ここまでお話をうかがってきた中にもたくさんの方のお名前があったので絞るのは難しいかと思いますが。

「選ぶのは難しいけど…奥田民生さんです。民生さんと同じ高校で3年間を過ごして、その間にもユニコーンは進んでいて、“俺も続くんだ”っていう気持ちである意味の目標になっていましたし、そのあとに僕は全然ジャンルの違う音楽を始めるけど、“絶対にどこかで会うんだ”って気持ちはずっとありました。民生さんの影響もありつつ日本語でも歌詞を書いて…だから、『variandante』は自分の中でユニコーンが出すアルバムみたいだなっていう感覚もあったんです。作品はもちろん存在感や佇まい、何から何までいろんなミュージシャンに影響を与えていますし、自分にとっても音楽を続ける中で重要なキーパーソンですね。」

取材:千々和香苗

磯部正文

イソベマサフミ:パンクロックバンド、HUSKING BEEのヴォーカル&ギター。1994年7月にHUSKING BEEを結成し1996年にHi-STANDARD主催のレーベルPIZZA OF DEATHより横山 健プロデュースで1stアルバム『GRIP』をリリース。2010年にはソロとして初のアルバム『Sign in to disobey』を発表し、同年9月には横浜スタジアムで行なわれた『AIR JAM 2011』のトップバッターを務めた。HUSKING BEEでの活動と並行して、ソロでのライヴも頻繁に行なっている。



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