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がん、介護、そして避けられない「お金の問題」。~セルフレジリエンスのすすめ③~

OTONA SALONE / 2021年9月1日 21時0分

皆さんにもこの先やってくるかもしれない「がん」と「介護」を乗り越える5つのポイント

前回までは

  1. がんになった自分を責めるな(前進せよ) 
  2. 自分だけで解決しようとするな(エリート街道を行け
  3. 医師はチームメンバー(プロジェクトリーダーは私)

をご紹介してきました。

 

今回は、ビジネスウーマンがなかなかできない、

 4.「助けて!と言える勇気を持て(見栄を捨てよ)」

です。

私も「できません、助けてください」なんてこと、バリバリに飛ばしている時は口にできなかったのですが、とうとう言わなければならない状況になりました。

「介護」も突然やってきた

健康な時には、自分が病気になる、ましてや「がん」になるなんて想像できません。しかし「介護」は、親が高齢になってくると意識せざるを得なくなります。

私は親の「老い」を強く感じるタイミングがありました。それは、母が、何度も同じ話をするようになったり、急に痩せてきた時でした。大きな母が、小さくなってきたのね。

一方、父は頭がすこぶるクリアだったので、「老い」を感じませんでした。むしろ、私ががんになってからも、強くサポートしてくれていたほど。

でもまさか、自分の乳がんが再発したタイミングで父が倒れるとは。

「よりによって今?」

完全に油断していました。

父が倒れる2週間前

この写真は、私が54才で乳がんが再発し、抗がん治療で髪が抜けた時のもの。横に写っている91才の父は、この2週間後に脳梗塞で倒れ、救急搬送されました。

そしてそのまま、介護レベルが一番重い「要介護5」の寝たきり状態になりました。

そのあと84才の母もアルツハイマー型認知症を発症し「要介護1」の状態に。自分自身のがん治療と両親の介護が同時にやってきたのです。

私はひとりっ子で独身。親戚は遠方に住んでいるし、ひとり娘の私がすべて対処するしかなくなりました。

「助けて!」の1回目で冷静になる

がんの治療をしながら家族の面倒を見るという点では、子育ても大変です。しかし子育ての場合は、子供の成長とともに出口が見えてきます。

介護は出口が見えない。事態がどんどん深刻になっていく。

出口は親の死、です。がんになった自分の死を考えながら、親の死にも直面する。大変ヘビーな心理状態に追い込まれます。

正直、がんで死ぬのではなく、心労で死ぬと思ったほど追い詰められました。

「このままだと破滅する……」そう思って、通院していた病院の「がん相談支援センター」に助けを求めました。これが「助けて!」の1回目です。

心の専門家は私に、「いいですか? まず問題を整理して、今やるべきことを明らかにしましょう」と言い、「最優先するのはあなたのがん治療ですよ。両親の介護は専門家にまかせなさい」「とにかく冷静になりなさい」と繰り返しました。いや、ほんとうにそのとおり。おかげで徐々に冷静になれました。

 

在宅介護を選んだ最大の理由は「お金」

そもそも なぜ私が、がんが再発しても親の在宅介護を選んだのか。

理由は2つあります。
ひとつ目は、脳梗塞で入院していた父が「家に帰りたい」と訴えて病院のベッドから落ちたから。そのあと、体をベッドにくくり付けられて「拘束」されました。落ちたら危険だし、病院側の責任問題にもなるからという理由です。

じっと天井を見て黙ったままの父を見て、涙が出ました。

かわいそうで仕方がなかった。
そしてもう1つの理由は、お金の問題です。施設に入ると、毎月多額の支払いが生じます。「だいたい月に25~30万円。施設によっては40万円近い出費になるかもしれません」と、病院のソーシャルワーカーがさらっと言いました。

父の8万円の年金では支払える額じゃないし、いつまで支払い続けるのかもわかりません。

私はといえば、仕事はほぼできない状態で、会社の売上は激減していました。

大金は支払えない、父を家で看取ろう、と考えたわけです。

しかし、父が入院していたリハビリ病院では、医師もスタッフも大反対で、口をそろえて

「娘さんががんの治療中、奥さんも高齢で弱っているのに、在宅介護なんて到底無理。3か月、いや3週間ももちませんよ」「悪いことは言わないから施設に入れなさい」と、強く言われました。

恥ずかしくて、お金を支払えない、なんて言えなかった。

 

「助けて!」の2回目でうれし泣く

誰にも相談できないまま悩み抜いて、近くにある役所の出張所を訪ねました。窓口の対応はとても事務的だったので、意を決してかぶっていた帽子を取り、ハゲ頭をさらして「動けないので助けてください」と、ここで2回目の「助けて!」を発しました。

びっくりして奥から出てきた年配の女性が、「だいじょうぶですよ、あなたが病気でも自宅でお父さんの介護をできますよ」

と言ってくれて、その場でうれし泣きました。

 

お金の見栄を捨てる

在宅介護をセッティングしてくれるケアマネジャーには、見栄を捨てて悩みをすべて打ち明けました。

収入が激減したこと、がんの治療にもお金がかかること。その上で「父がもらう年金の8万円でできる限りのサービスを受けたい」と頼みました。

ひとつだけ条件を出したのは、「おむつ交換」です。そう、親のシモの世話ですね。

どうしてもそれだけはできない。私がやらなきゃいけないのはわかっているけれど、無理です、と強く訴えました。

「はい、わかりました」とケアマネは優しく笑い、「そういうご家族はたくさんいらっしゃいます」と父がもらう年金の範囲内で、おむつ交換を中心に受けられるプランを設計してくれました。

 

在宅介護では情報共有がキーに

さて、実際に在宅介護がスタートしてびっくりしたことがあります。

それは、1週間に18人の介護スタッフがやって来たことでした。医師、看護師、介護ヘルパー、歯科衛生士、マッサージ師、入浴のためのスタッフです。

介護の手が多ければ多いほど助かるわけですが、朝から晩まで毎日たくさんの介護スタッフとやり取りをして、なおかつ全員に情報共有してもらうためには、家族である私がマネジメントして現場を動かしていく必要がありました。

その時、私は抗がん剤の副作用で思うように動けませんでした。

「私自身も介護してほしい」という状態だったわけです。

 

がん治療では、6つの診療科にかかり、それぞれの医師とやり取りをしていました。体調が悪い時にたくさんの人とコミュニケーションを取ることはすごくエネルギーを使います。

この難局をいかに乗り切ったか、それがこちらです。

私の治療メモ

とにかくなんでもかんでも書いたのです。

書くことで、自分の状態を客観的にとらえられて、6人の医師に最も伝えたいことを伝えられました。

そしてこれが父の介護スタッフ18人との連絡ノートです。

介護スタッフ情報共有ノート

このノートには、たとえば「今、副作用で動けないので助けて下さい。荷物を1階におろして外に出しておいてくれますか?」と具体的に書いて、介護ヘルパーさんにチカラ仕事までお願いしました。

返事には「やっておきました! こんなのお安いご用です!」と書いてありました。これがどれほど助かったか。

そう、私の「助けて!」の3回目は、ノートに書いて自分ができないことを父のヘルパーにお願いしたこと。このおかげで抗がん剤治療に専念できたのでした。

 

父のお尻を見ないまま?

結局、父は在宅介護から1年3か月後に自宅で亡くなりましたが、それもヘルパーさんが見つけてくれました。プロらしく、実に落ち着いた対応をしてくれたので、母も私も動揺することなく父の死を受けとめることができました。

私は、副作用の強い抗がん治療を続けながら、要介護5の父の在宅介護をスタートさせ、そして父を看取ることができた。それも要介護1の母と2人で、です。その上、最後までおむつ交換を1度もせずに、父のお尻を見ることなく、です。

この話をすると、皆さんにものすごく驚かれます。「信じられない!」と。在宅介護への、えもいわれぬ恐れを皆さんが持っておられる。私もそうでした。でも現実はまったく違いました。

「できないので、助けてください」と思い切って言えたことで、たくさんの専門家のチカラを借りることができました。

がんの治療をしながらでも、在宅介護は十分に可能だったのです。

次回は最終回。

がんサバイバーにとっての最大の恐怖がやってきます…!!

 

 

 

≪セルフレジリエンススペシャリスト 大穂その井さんの他の記事をチェック!≫

 

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