中国で繰り返される権力闘争の代表格は「毛沢東vs劉少奇」

NEWSポストセブン / 2012年5月24日 7時0分

 歴史はライバルたちの激突で紡がれる。1921年の結成以来、中国共産党内部では激しい権力闘争が繰り返されてきた。表向きは路線対立という形を取っていても、その背後には憎悪、嫉妬、猜疑心など様々な人間的感情が渦巻いている。代表的な闘争として「毛沢東vs劉少奇」のケースを取り上げる。

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 中国共産党の歴史の中で最も激しい権力闘争が行なわれたのは、党の中枢から末端までで、数百万人から1000万人以上の死者・行方不明者を出したとも推定されている文化大革命の最中である。

 毛沢東は、1958年に自らが発動した農工業の大増産を目指す大躍進政策の大失敗が明らかになると(最終的に数千万人の餓死者が出たと見られている)、党のトップである中央委員会主席の座にはとどまったものの、実権を失った。代わって、1959年に毛から後継者に指名されて国家主席の座を譲り受けた劉少奇や、党中央委員会総書記のトウ小平らが中心となり、経済の立て直しを図った。

 毛沢東は1962年には大躍進政策の失敗に対する自己批判もしている。だが、劉少奇らの権力が強まり、いずれフルシチョフに批判されたスターリンのごとく自分も否定されることを恐れ、反撃を開始した。最初は「修正主義」批判という理論闘争の形を取り、次には「党内の資本主義の道を歩む実権派」を打倒すると公言した。公に名指しはしないものの、「実権派」が劉少奇らを指すことは明らかだった。劉に対して「俺が小指1本動かせば、お前など打倒できる」と面と向かって恫喝したことがある。実権を失ってはいても、毛の格は他の誰よりも明らかに上だった。毛は「実権派」に対し、理論的に追い詰め、不意打ちするように次々と失脚させ、その一方、一般の若者に「造反有理」をけしかけた。毛は抜きん出たカリスマ性を持つ天才的扇動家だったのだ。

 当初、毛沢東の真意がつかめなかった劉少奇はずるずると後退せざるを得なかった。これに限らず、毛は真意を明確にせずに相手を批判し、相手を不安に陥れて追い込むという手法を頻繁に使った。こうして外堀を埋めてから、毛沢東は一気に勝負に出た。

 1966年8月に開かれた党中央委員会総会で「プロレタリア文化大革命」を党として宣言させ、総会の期間中、「司令部を砲撃せよ私の大字報」と題した、「実権派」の党幹部打倒を指示する文書を発表したのである。

 劉少奇は自己批判を余儀なくされた。そして、毛沢東の一存で党内序列が書き換えられ、劉は毛に次ぐ2位から8位に落とされた。国家主席の座にとどまったものの、名目にすぎなかった。

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