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ファンからも「卑怯だ」と叩かれたソウル五輪を経て、瀬古利彦が実現した「マラソン一発選考システム」

NEWSポストセブン / 2021年5月11日 7時5分

マラソン走者として瀬古は驚異的な成績を残した(時事)

 新型コロナウイルスの感染拡大によって無観客開催の可能性が取り沙汰される東京五輪だが、本来であれば旧来のやり方を大きく改革した「マラソン代表選考」の結果が試される場として注目されるはずだった。基準を満たした実力者のみを集めた事実上の“一発勝負”となるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)が導入され、それを取り仕切ったのが日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの瀬古利彦だ。

 瀬古のマラソンランナーとしての成績は輝かしいものだ。四日市工業高校では、全国高校駅伝「花の1区」を3年連続で走り、早大に進学すると箱根駅伝「花の2区」に4年連続で出場し、3年、4年時は区間新記録を更新した。マラソンデビューは早大1年だった1977年の京都マラソン。3年時に福岡国際に初優勝すると、翌年はボストンマラソン初挑戦にして2位に入った。卒業後はエスビー食品で競技を続け、1988年に引退するまでマラソン15戦10勝の成績を残している。瀬古はこう振り返る。

「やはり、切磋琢磨するライバルの存在は大きかったと思います。宗(茂、猛)兄弟がいたし、そのあとには中山(竹通)君がいたからね。彼らが凄い練習をしているという話を聞いて、そのあと記録を出したりすると、私も頑張らないといけないという意識を持つ。お互いに意識し合って、相手に認められたいと思うことが、良い結果につながっていったのだと思います」

 その一方で、オリンピックでのメダルには縁がなく、1980年モスクワ五輪は冷戦下で日本がボイコットしたことにより出場のチャンスを奪われ、1984年のロス五輪は調整がうまくいかず14位に終わった。そして、キャリアの集大成として臨んだ1988年ソウル五輪の代表選考では、思わぬ騒動に巻き込まれた。

 当時、五輪代表の選考は福岡国際、東京国際、びわこ毎日の3レースの成績を参考にするのが慣例だったが、気象条件もコースも違うレースでは不公平になるという批判に応えるかたちで、陸連は強化選手に「1987年12月の福岡国際マラソンへの出場」を義務づけた。事実上の“一発勝負”で3つのイスを決めることになり、中山竹通、児玉泰介、谷口浩美、宗猛、伊藤国光、新宅雅也らと代表の座を争うことになった。

 ところが、瀬古は大会12日前に突然、欠場を発表。左足腓骨(ひこつ)の剥離骨折が理由だった。すると陸連は、翌年3月のびわ湖毎日マラソンで瀬古が結果を残せば、代表入りできると方針転換し、中山が「這ってでも(福岡国際に)出てくるべきだ」と発言したと報じられて大騒動に発展した(後に中山は「自分なら這ってでも出る」と発言したと否定)。福岡国際では、中山がレース途中まで世界記録を上回るペースで走り、2位を2分以上引き離す大会最高記録タイ(当時)で優勝を果たした。瀬古はこのレースをどう見ていたのか。

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