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ドラフト最注目・高知高校の森木大智はなぜ一度も甲子園に出られなかったのか【前編】

NEWSポストセブン / 2021年10月7日 16時5分

 もし浜口が監督に就任しなければ、熱心な勧誘を受けていた大阪桐蔭や中学時代に日本一を争ったライバルがいる宮城・仙台育英に森木は進んでいたかもしれない。浜口監督と共にもう一度日本一を目指す──それが高知高校に進学した理由だ。また中高一貫校の場合、高野連に届け出れば、中3の秋から高校の練習に参加できることも、軟式から硬式にボールが変わる森木には幸いした。当時、浜口はこう話していた。

「中高一貫校に導くということは、その子の幼少期、小学生時代から関わることになる。少年野球時代の故障とか、ポジション歴を頭に入れた上で、中学で指導にあたれるのは大きいです。どこまで無理をさせられるのか、どういう成長段階にあるのか、ということを把握しているわけですから」

「甲子園は5回出たい」

 当時の森木は高校野球では何の実績もない一球児に過ぎなかった。それでも、150キロという数字が一人歩きし、怪物の登場を待ちわびる高校野球のファンは過度な期待を寄せてしまうもの。誰より森木自身が、未来にこう期待を抱いていた。

「目指す球速は165キロですが、150キロのキレのあるボールを安定して投げたい。ホームランも、最終的には50本ぐらいは打ちたい。そのためにも甲子園はこの1年の夏から出て、卒業までに5回出たい」

 高い頂を目指すのであれば、15歳の時点でこれくらいの大言を口にできなければならないだろう。

 しかし、私がこの発言を記事にしたことで、あの名伯楽にして策士、甲子園通算54勝(2021年現在)を誇る明徳義塾高校監督・馬淵史郎の闘志に火をつけることになる。

 野球王国・高知といえば、明徳義塾。明徳といえば馬淵だ。1992年夏の甲子園で、星稜(石川)の松井秀喜に対し、5打席連続敬遠を指示し、高校野球界一の嫌われ監督となった馬淵も、2002年夏には全国の頂点に立った。

 明徳が長く高知で一強時代を築き、古豪・高知高校は夏に限っては2009年を最後に甲子園から遠ざかっていた。森木が聖地にたどり着くために、越えなければならない大きな城壁が馬淵だった。

 その一方で、馬淵も窮地に立たされていた。高知中学とライバル関係にあった明徳中学で、テレビなどにも取り上げられていた関戸康介(大阪桐蔭)、田村俊介(愛工大名電)というふたりの有望選手が明徳義塾進学を選ばなかったのだ。さらに森木という豪腕が県内にいることで、明徳中学の約10人が明徳を離れるというのっぴきならない事件が起きていた。

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