平泉成 撮影現場であえて勝新太郎に近づかなかった理由とは

NEWSポストセブン / 2013年3月20日 7時0分

 名優たちには、芸にまつわる「金言」が数多くある。映画史・時代劇研究家の春日太一氏が、その言葉の背景やそこに込められた思いを当人の証言に基づきながら掘り下げる。今回は、人気俳優・平泉成の撮影現場での決意を紹介する。

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 平泉成は近年、ドラマ・映画だけでなくCMやバラエティ番組にも活躍の幅を拡げている。役者人生のスタートは1963年。当時、ホテルマンをしていた平泉は将来の出世に限界を感じ、トップスター・市川雷蔵と縁故のある先輩の紹介で大映のニューフェイス試験を受験、これに合格した。
 
 所属は時代劇を専らとする大映京都撮影所。演技経験のなかった平泉は「見様見真似」で芝居を身につける。当初はエキストラや斬られ役が多かったが、『釈迦』『座頭市物語』などで知られる大映京都のエース・三隅研次監督に目をかけられ、役者として成長していく。

 大映でキャリアを積んでいった平泉だったが、雷蔵・勝新太郎という二大スターに「追いつけ追い越せ」という意識は持たず、あくまで脇役としての立ち位置を全うしようと決意する。そして、時代劇・現代劇どちらの作品にも出まくった。

「雷蔵さんになれるわけじゃない。勝さんになれるわけじゃない。そこは諦めていましたし、どちらかと言えばアンチの方でやりたいというのはありました。ですから、勝さんと現場をご一緒させていただいても、あえてあまりそばに行かなかった。

 自分がやりたい芝居をするためには、近くにいて『今度、こういう芝居をしたらどうだ』と勝さんから聞いていたら負けちゃう気がしたんですよ。だから、せめて待ち時間だけでも、遠くにいようと決めました。本番になって芝居して、『お前、もうちょっとこうしろ』と勝さんに言われたら『はい』と言って、また離れて。また本番になったら芝居して、終わったら離れる。それを繰り返していました。

 役者をやり続けるしかなかった。どこにも行くところはないんだから、これに人生を賭けるしかない。70歳になったらみんな死んでいくから、そこまで生きてりゃ自分の番が来るかも分からない、と思っていました」

※週刊ポスト2013年3月29日号

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