かつて1年だけ存在のWBC的な世界規模リーグで日本の成績は?

NEWSポストセブン / 2013年3月25日 7時0分

 かつてWBCの前身のようなリーグで、日本から海を渡った“サムライ”たちが戦ったことをご存じだろうか。1969年4月28日の毎日新聞(朝刊)には、こんな記事が載っている。

〈グローバル・リーグに参加している東京ドラゴンズは26日、カラカスでオイラーズ(ベネズエラ)と三戦目を行ない、(中略)初の一勝をあげた。〉

 グローバル・リーグとは、米国の実業家のウォルター・ディルベックが中心となって設立され、1969年に1年間だけ存在した、世界規模のプロ野球リーグのことだ。

 日本は『ハポン・デ・トキオ』(東京ドラゴンズはマスコミが用いた通名)という名前で参加。そのほか、米国2球団(アラバマ・ワイルドキャッツ、ニュージャージー・タイタンズ)、ドミニカ共和国(ドミニカ・シャークス)、ベネズエラ(ベネズエラ・オイラーズ)、プエルトリコ(プエルトリコ・サンファンズ)と5か国6球団が参加した。

 日本の監督は森徹。中日時代には本塁打王になった選手で、現在は公益社団法人「全国野球振興会」(日本プロ野球OBクラブ)の理事長を務めている。

「将来的には日本から2チームを送り出すことになっていた。ですからまずは東京。初年度に成功すれば、2年目は大阪からもチームを編成する予定でした。いずれ韓国や台湾からも参加するという構想もあった」(森氏)

 当時は「柳川事件」後でプロアマの関係が悪化していた。

 ドラフト会議が導入される以前には、プロとアマは毎年、3~10月末までプロはアマ選手と契約しないなどの協定を締結していた。しかし1960年にプロ対談者の社会人への受け入れをめぐって紛糾。“無協定状態”だった1961年4月、中日が日本生命・柳川福三と契約したことでアマ側が激怒し、プロ対談者の受け入れを一切拒否する事態となっていたのだ。

 そこで森氏は、「元プロ野球選手の野球への再挑戦と同時に、メジャーを目指す若い選手の飛躍の場になれば」と参加を引き受けた。神宮第二球場で行なわれた入団テストには、引退したプロ選手やアマチュア選手が90人も集まり、矢ノ浦国満(巨人)や鈴木幸弘(サンケイ)など25人が合格した。

 カラカスでのオイラーズとの開幕戦では、両軍の監督が球場に国旗を揚げた。

「選手には、試合で負けてもケンカで負けるなと発破をかけました。気迫あふれるプレーを見せてくれて、日本戦は『カミカゼ野球』として人気だったんですよ。ユニフォームの袖につけた旭日旗のワッペンも好評で、米国人には“くれ”とせがまれました(笑い)。オープン戦は3勝4敗と負け越したけど、公式戦は11試合行なって7勝3敗1分の首位でした」(森氏)

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