『ひょうきん族』を名物ディレクターと片岡鶴太郎が語り合う

NEWSポストセブン / 2013年5月24日 7時0分

 日常生活に“笑い”をもたらしてくれるバラエティー番組には、いつの時代も助けられ、“明日もがんばろう”という活力をもらっている人も多いだろう。そんなバラエティー番組を作り、出演し、研究してきた人たちだけが知る、汗と涙のバラエティー番組の歴史。タレントの片岡鶴太郎氏と、『笑っていいとも!』や『オレたちひょうきん族』を手がけたフジテレビジョンエグゼクティブプロデューサーの三宅恵介氏が、その思い出を振り返る。

三宅:ぼくがバラエティー番組の制作にかかわったのは『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(1975年)からですが、大将(萩本欽一)には本当にお笑いのいろいろなノウハウを教わりました。

片岡:コント55号が出てくるまで、漫才ってマイクの前で立ってやるものという認識でしたよね。それを変えてしまったのが萩本さん。自由に動き回って、ときには舞台袖に入ってしまってカメラから見切れてしまう。その予測不可能なドタバタ加減がまた面白かったんですよね。

三宅:最初はカメラさんから撮りきれないってクレームが来たんですよ。それをプロデューサーが「萩本さんの好きにやっていい」と許可し、ライブ感ある笑いを引き出した。

片岡:それがアドリブ重視の『オレたちひょうきん族』(1981年)につながっていくわけですね。

三宅:初期のひょうきん族の2枚看板になったのが、『タケちゃんマン』と『ひょうきんベストテン』でした。実はぼくはタケちゃんマンのほうの演出をしていて、ベストテン担当は荻野繁ディレクター。この枠の中でまずヒットしたのが、鶴ちゃんのマッチ(近藤真彦)ですよね。

片岡:当時ちょうどたのきんトリオが破竹の勢いだったから「うちでもやろうよ」とマッチのモノマネをふられて、慌てて歌を覚えて。

三宅:演者さんにはリハーサルで段取りだけ覚えてもらい、仕掛けは本番1回だけというのがひょうきん族のスタイル。

片岡:そう。だから演じるぼくらも、いつも何が起きるのかわからなかったんですよ。

三宅:そういえば、マッチのニース(フランス)ロケのパロディーがあったじゃない。あれは秀逸でした。

片岡:収録日が1日しかなく、ベストテンのスタジオ本番が夜だったから、昼間はロケ。テロップでは“ニースから宇宙中継”になっていましたけど、実際は葉山(神奈川県)ですよ。

三宅:ファミレスの看板とか映ってましたよね(笑い)。

片岡:いかだの上から「マッチで~す!」ってやったはいいけど、あの日は波が荒くて強風で。どんどんいかだが沈んでいく。それでもモノマネしながら歌うしかない。最後にはいかだも流されてしまい、ぼくは本当に溺れてるのに、荻野ディレクターは「鶴ちゃん、おいしーなー」ってずっと遠目から撮ってる。見かねて漁船が助けに来てくれた(笑い)。

※女性セブン2013年6月6日号

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