92歳の元海軍空母「加賀」乗組員 真珠湾攻撃当日を振り返る

NEWSポストセブン / 2013年8月10日 16時0分

 終戦から68年が過ぎた。戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。太平洋戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元海軍空母「加賀」艦攻搭乗員だった前田武氏(92)の真珠湾攻撃当日の証言を紹介する。

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〈前田氏は大正10年生まれ。昭和13年、大野中学校を卒業し、横須賀航空隊に入隊。16年9月に空母「加賀」乗艦。九七艦攻搭乗員として真珠湾攻撃、ラバウル・カビエン攻撃、ポートダーウィン空襲に参加。17年6月ミッドウェー海戦で重傷を負い、療養のため内地へ戻り、日本近海で転戦、終戦を迎える。〉

 昭和16年12月8日午前1時20分に第一次攻撃隊は発艦開始した。最初に零戦、次に九九式艦上爆撃機(九九艦爆)さらに水平爆撃隊の九七艦攻、そしていよいよ我ら雷撃隊の番。訓練通りに飛行甲板を疾走して甲板を蹴った瞬間、重い魚雷を抱えた機体がグッと沈んだ。その瞬間に素早く“脚”をたたむと、フラップ(主翼の高揚力装置)が風をはらんでスーッと浮いていった。だんだん小さくなる「加賀」に対して、心の中で「無事に母港に帰ってくれ!」と叫んだ。

 午前3時過ぎに第一次攻撃隊はハワイ上空に到達した。総指揮官の淵田美津雄中佐機からの白流(信号拳銃)が1発なら[奇襲]、2発なら[強襲]の合図。[奇襲]であれば我ら雷撃隊が先に出る、敵に気付かれて[強襲]になったときは急降下爆撃隊が先陣を切って対空砲火を制圧する手はずだった。

 ところが淵田機がなぜか2発撃ってしまい、それを急降下爆撃隊が[強襲]と判断して先にオアフ島を爆撃し、真珠湾攻撃が開始された。雷撃隊も碇泊中の戦艦群に肉薄し、我が機の目標は戦艦「ウェスト・ヴァージニア」だった。

 操縦員吉川與四郎三等飛行兵曹の掛け声「よーい、テッ!」に合わせて、私が輪状の魚雷投下索を引っぱる。訓練の時に目測で高度10メートルに調整できる者たちだけが操縦員に選ばれていたので、魚雷投下直前には敵が射ち上げてくる機銃弾が主翼のはしっこに当たったりした。投下と同時に、その分軽くなった機体がグーンと浮いた。「ウェスト・ヴァージニア」の艦橋スレスレを通り過ぎ、後ろを振り返ると茶色の水柱が空高く立ちあがっているのが見えた。

 攻撃は30分で終了し、指定された集合地点に、魚雷投下後の九七艦攻が次々と集まってきた。真珠湾の海底が浅いせいか、砂利交じりの泥が跳ねて、風防は泥だらけ。再び編隊を組んで母艦に向かい、「加賀」に帰還できたときは本当に嬉しかった。攻撃した「ウェスト・ヴァージニア」は、当時アメリカ海軍最新鋭(ワシントン軍縮条約発効前において最後に建造)の超弩級戦艦で、我が国でいえば、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」みたいなものだったからだ。

 ただ、魚雷7本を命中させて沈めたはずだったのに、終戦の年に夜間雷撃を行なった際砲撃してきたのが「ウェスト・ヴァージニア」だったらしい。それを後から知って、これじゃ勝てないなと思ったものだ。(取材・構成/久野潤=皇學館大学講師)

※SAPIO2013年9月号

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