鬱病から復帰の山本文緒氏「病前のことは遠い前世の出来事」

NEWSポストセブン / 2013年11月21日 7時0分

【著者に訊け】山本文緒氏/『なぎさ』/角川書店/1680円

 故郷、そして家族とは、たぶんこれくらいの存在だろうと思う。例えば長らく会わずにいた妹と再会した時、彼女の仕草や体つきを姉が〈懐かしい、と思えること〉に安堵するくらいの近さであり、遠さなのだ。

 そうした人間関係の機微を、山本文緒氏の実に15年ぶりの長編『なぎさ』は、リアリティという言葉すら差し挟ませないほど静謐な筆致で描いてしまう。故郷長野を飛び出し、神奈川県久里浜で夫と暮らす〈冬乃〉のもとに、わけあって転がり込んできた元漫画家の妹〈菫〉。

 物語はこの海のない町で育った姉妹と同窓生の夫〈佐々井君〉の同居生活を軸に進むが、「おねえちゃん」「菫」と昔ながらに呼び合う中にも緊張は微かに潜み、決して美しいだけではないドラマを予感させる。

 夫の部下で元芸人志望の〈川崎君〉や、菫を訪ねてきた怪しげな友人〈モリ〉、近所の上品な老人〈所さん〉……一見のどかな町の人間模様は姉妹によるカフェの開店や夫の勤め先のブラック企業疑惑まで呑みこみ、どこへ行くとも知れない彼らに、人生の選択を迫る。

 1998年『恋愛中毒』がベストセラーとなり、2001年には『プラナリア』で直木賞を受賞。人気作家として活躍する中、彼女を鬱病が襲い、『アカペラ』で復帰を果たしたのは5年前のことだ。

「病気になる以前のことは遠い前世の出来事というか、地続き感がないんです。お陰様で今はすっかり元気になり、一時は落ちるだけ落ちた体力が日々ついていく感触が、この歳になるとちょっと新鮮です」

 冒頭、幼い姉妹が両親に連れられ、初めて海を見るシーンからして秀逸だ。

〈母に言われてスニーカーを脱ぎ渚に向かう〉〈寄せる波よりも、引く波の力が強い。足裏の下の砂がすごい力でさらわれる〉〈波がこないところへ逃れなくてはと思うのだが、引っ張られることも何故だかちょっと気持ちがよくて、恐怖と誘惑が寄せては引いていく〉

 そんな引波を前に、誰もがかろうじて踏みとどまっていた。家事だけが取柄の主婦・冬乃も、一時は漫画家として脚光を浴びた菫も。またどこか飄々とした佐々井や、恋人との結婚を夢見て就職した川崎にしても、人知れず謎や秘密を抱え、海辺の町で暮らしている。

「海を囲む形で住宅地や商店街やフェリー乗場がある、箱庭みたいな久里浜はいつか書きたかった町でした。当初はもっと純文学的に何気ない話を何気なく書こうとしたんですが、基本がエンタメ志向なんでしょうね。伏線を張りめぐらせて最後に回収みたいなことを、ついやりたくなるんです」

 冬乃が故郷を出た理由や、菫がなぜ久里浜に居座るのかは、終盤まで謎のまま。また、佐々井と川崎は、ある大口の取引再開を機に過労死寸前まで酷使されることになる。そして、社員を使い捨てにする魂胆の会社を、川崎は辞め、佐々井は辞めないのだ。

【著者プロフィール】山本文緒(やまもと・ふみお):1962年神奈川県生まれ。神奈川大学経済学部卒。会社員を経て87年に作家デビュー。1999年『恋愛中毒』で第20回吉川英治文学新人賞、2001年『プラナリア』で第124回直木賞。著書は他に『眠れるラプンツェル』『ブラック・ティー』『群青の夜の羽毛布』『落花流水』『アカペラ』、エッセイに『そして私は一人になった』など。154cm、AB型。

(構成/橋本紀子)

※週刊ポスト2013年11月29日号

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