谷川浩司永世名人に「もしA級陥落したら」尋ねた作家の述懐

NEWSポストセブン / 2014年1月27日 11時0分

 新しい年が明けて間もなくのこと、日本将棋連盟に大きな衝撃が走った。1月7日に行なわれたA級順位戦第7回戦で谷川浩司九段(17世永世名人)が渡辺明二冠に敗れ、1勝6敗となった。後日に行なわれた順位戦で競争相手が次々と星を伸ばし、その結果、谷川氏の降級が決定した。19歳から32期連続で保持していたA級ランクからの陥落。一つの時代の転換点を『将棋世界』元編集長で作家の大崎善生氏が綴る。

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 永世名人のA級陥落というのは独特の緊張感が伴うものである。かつて昭和を代表する大名人、大山康晴15世名人は永世名人としてA級を陥落すれば即時に引退することを表明して、ついにその一生をA級のまま送った。大山には永世名人を横綱とすればB級は平幕との意識があり、横綱が平幕で戦うわけにはいかないという矜持があったのだ。

 さて谷川はどうするのか。将棋ファンは誰もが固唾を飲んで見守ることになった。私もその成り行きにもちろんある緊張感を伴って注目していた。というのは今からもう10年近く前に谷川とある雑誌の企画で対談し、その席でオフレコではあるが、もし万が一A級から陥落したらどうするかと聞いたことがあったからだ。

 当時の谷川はタイトル保持者でありバリバリのA級棋士で降級とはほど遠い存在だったが、なんとなく興味があって聞いてみたのだ。「さあ、困りましたねえ」と、人の良い谷川は私の無理な質問に少し弱った顔をして黙り込んだ。谷川は実直な性格で、尋ねたことには恐ろしいほどに正直に答えてくれる。その谷川が簡単に答えを出せないということは、結構ぎりぎりの問いかけなのだ。

 谷川から答えがないので「じゃあその時は僕に電話して相談してください」と私はジョークのつもりで言った。すると谷川は「わかりました。その時は大崎さんに決めてもらいますから」と、恐らくそれもジョークなのだろうが真顔で答えたのだった。

 1月7日の第7戦での谷川の負けを知った時、私は小さくない動揺に襲われている自分を感じていた。さすがに谷川から電話が掛かってくることはなかったが、万が一電話が来た時の言葉を捜し続けていた。

 谷川は何といっても潔さを信条とした美学の男である。14歳でプロデビューしてから常にトップを走り続けてきた。そんなプライドもあり、また本人の驚くほどにあっさりした性格から、一気に引退もあるのではないかと考えていた。現在は日本将棋連盟会長の重責を担っているということもある。

 しかし私の懸念はあっさりと吹き飛ばされた。降級が決まった直後に谷川は談話を発表した。「来期はB級1組で頑張ります」という実に簡潔なもの。その言葉に迷いは一切なく気負いも感じられず、逆に拍子抜けするほどあっさりとした、実直な谷川らしいものであった。

 私はその言葉を聞き、何か久々に谷川の清々しさに触れたように思えた。そうそう、谷川はいつもそんな感じだった。

※週刊ポスト2014年2月7日号

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