元近鉄バファローズ捕手 韓国・斗山ベアーズ監督就任の経緯

NEWSポストセブン / 2014年5月22日 11時0分

 日本から大きく遅れて誕生した韓国球界は、日本とも深い関係を持っている。スポーツライターの永谷脩氏が、両国の野球に深く関わった選手についてのエピソードを綴る。

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 昨年11月、元近鉄の捕手・石山一秀が電話をくれた。

「監督になってしもうた」

 当時、石山はKBO(韓国野球委員会)「斗山ベアーズ」二軍監督を務めていたが、2014年から一軍監督に昇格することが決定したのだ。在日韓国人として生まれた経歴を持つ石山。日韓関係が悪化している最中、“在日”を監督に据えるなんて、斗山も懐が深いなと思ったものである。

 石山は平安高(京都)を春夏連続で甲子園に導いている。実は元々、東尾修(元西武監督)とバッテリーを組む可能性があったという。

「同い年の東尾は、和歌山のすごい投手。最初はウチ(平安)に来ると聞いていたから楽しみにしていたのに、結局地元の箕島に残ってしまった」

 お前が来ていたら甲子園で優勝できたのに―石山は、飲み屋で東尾に会うと、いつもこう愚痴っていたのを思い出す。

 1969年に近鉄に入団。しかしプロ入り後は、選手ではなくブルペン捕手として一軍に帯同することが多かった。当時の近鉄の捕手に辻佳紀、有田修三、梨田昌孝らがいたため、一軍での出番がなかったからだ。

 そんなプロ生活で石山が輝きを放ったのが、引退を決めていた1983年、10月21日の阪急戦だった。9回裏2死という最後の最後に代打で呼ばれた“日本球界での最終打席”で、見事プロ入り初本塁打を放ったのだ。入団14年目、32歳での初本塁打は日本記録にもなっている。

 翌1984年、石山は同じく在日同胞である新浦壽夫(前年まで巨人)と「三星ライオンズ」に入団。新浦の登板時には必ずバッテリーを組み、1985年の新浦の最多勝をバックアップした。

 1986年に選手生活から完全に身を引くが、その人柄と人付き合いの良さから、再び近鉄からブルペン捕手として声がかかる。その際、権藤博・投手コーチからブルペンの“仕切り役”を要請されている。権藤は投手コーチになったら、まず必ずブルペンのしきり役が誰かを判断する。石山については、「少々口が多いが全体を仕切れるから、いの一番で指名した」と言っていた。89年の優勝の際、ベンチ裏で権藤コーチと仰木彬監督の確執があった時は、石山が調整役を果たし、うまくチームをまとめていた。

 思えばあの当時の近鉄の連中は、元々仲が良かった。東京での試合後は必ず六本木に出向いて飲み歩き、最後はコーチ・選手たちが合流して『長い髪の少女』(ザ・ゴールデン・カップス)を唄い上げるのがお約束。ホテルに戻るのはいつも午前4時を回っていた。早朝に外を散歩している監督と出会っても、お互いまったく動じなかったのだから、まさに規則も門限もない、豪快なチームであった。

 特に当時のバッテリーの繋がりは強かった。投手コーチだった権藤を中心に、小野和義、阿波野秀幸、吉井理人、山下和彦に、何故か石山も参加して、「GON会」なるものを結成(今は散会)。毎年の権藤の誕生日(12月)には、東京でゴルフコンペを開いていた。

 石山は大阪から飛行機で出てくるのだが、いつも帰りは嬉しそうにしていた。「行きはエコノミー、帰りはファースト」──それが、ゴルフのうまい彼の、私に対する口癖であった。今年の春、宮崎でキャンプを張っていた斗山の石山監督に会った時も、「今年は楽しみが減ったよ」と笑っていたのを思い出す。そしてこう付け加えた。

「ウチのチームをよろしく」

 日韓関係がこんな時だけに、両国の野球に太いパイプを持っている石山に、交流の橋渡しをしてもらいたいものだが。

※週刊ポスト2014年5月30日号

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