司馬遼太郎の案内役・老台北から自虐史観の日本人への遺言

NEWSポストセブン / 2017年8月4日 7時0分

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日台交流を担う人材育成に尽力し続けた 共同通信社

 一週間前に国際電話でお話しし、激励を受けたばかりだった。“愛日家”蔡焜燦(さいこんさん)氏が7月17日に台北の自宅で亡くなった。90歳だった。

 蔡焜燦氏──司馬遼太郎氏の著書『街道をゆく 台湾紀行』(朝日新聞社)で、司馬氏の案内役を務め、司馬氏との軽妙なやり取りが読者を惹きつけた。司馬氏をして「博覧強記の人」といわしめ、そして“老台北”(ラオタイペイ)として人気を博した蔡氏の死は日台両国にとって大きな損失である。

 蔡焜燦氏は、日本統治時代の昭和2年(1927年)に台湾中部の台中州(現・台中市)に生まれ、彰化商業学校を卒業した後、志願して岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入校する。その後、日本が敗戦して台湾に復員した蔡氏は、学校の体育教師を務めたのち実業家に転身して半導体のデザイン会社などを経営した。だが蔡氏は、こうして築いた財を日台交流のために惜しみなく投じて両国の人材育成につとめたのだった。

 蔡焜燦氏は、こよなく日本を愛し、自ら、“親日家”を超える“愛日家”と称して日台交流の中心的役割を果たしてきた。これまでどれほど多くの日本人が彼を訪ねていったことか。

 実業家でもあった蔡氏は、日本統治時代の第4代台湾総督・児玉源太郎の民生長官を務めた後藤新平の遺訓「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生は上」を胸に刻んで、将来の日台交流を担う人士の育成に取り組んできたのだ。

 日本からの客人を迎える蔡氏は、決まって一流レストランで一流の台湾料理を振舞い、そして軽妙な語り口で日本人が知らない感動的な日台交流秘話を披露して客人を感動の渦に包み込むのだった。

 これまで私も、数多の日本人を蔡焜燦氏に紹介して宴席を共にしてきたが、感動のあまり涙を流す者も多かった。そうして会食が終わる頃には、皆はもれなく台湾が好きになり、なにより日本人としての誇りを取り戻して日本が好きになっていたのである。その技はまさに“老台北マジック”ともいうべきものだった。

 そしてそんな宴席で蔡氏はいつも皆にこう投げかけた。

「日本人よ、胸を張りなさい!  そして自分の国を愛しなさい!」

 蔡氏は、半世紀にわたる台湾の日本統治時代を高く評価する。日本政府は莫大な金額を投じて、道路や鉄道などのインフラ整備をはじめ、台湾人のための医療機関や学校の設置などを行った。このことによって台湾はまたたく間に近代化されていったのだった。蔡氏は、とりわけ当時の日本の教育が今日の台湾発展の基礎を築いたと称賛する。

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