『ベストテン』司会者や『少女A』作詞家が回想する中森明菜

NEWSポストセブン / 2018年1月20日 7時0分

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左から松下賢次、売野雅勇、太田省一の各氏

“花の”と冠が付くほど隆盛を極めた1982年デビュー組のアイドルたち。中森明菜『少女A』の作詞家・売野雅勇、『ザ・ベストテン』司会者・松下賢次、著述家・太田省一の3氏が、あの時代と「花の82年組」を振り返る。

売野:1970年代の重厚感溢れる歌から、80年代は軽さが求められるようになりました。象徴的な歌が、1980年1月1日発売である沢田研二さんの『TOKIO』。ジュリーの作品を書いてきた阿久悠さんではなく、コピーライターの糸井重里さんが担当したことで、詞が軽くなった。生活感の希薄さがポイントでした。

太田:1979年の終わりから1980年の始めは、ちょうど阿久さんの休筆期間中でもありましたね。

売野:さらにその源流は、1979年のYMOの曲『テクノポリス』。冒頭で「TOKIO」と囁いています。ニューヨーク、ロンドン、パリという世界のメトロポリスの中で、東京を「TOKIO」と位置づけた。

 確かに、僕がファッション誌に関わっていた1970年代後半、DCブランドがどんどん増え、同時に建設ラッシュで街の風景も変わっていき、東京が流行の発信源になっていました。

 沢田さんの『TOKIO』以降、レコード会社は広告の仕事に関わっている書き手を探すようになり、僕にも声が掛かりました。コピーライターはまず枠組みを考えるので、企画的な歌が増えた。その流れが、1980年代のアイドルブームを決定づけたと思います。

太田:翌年、湯川れい子さんが『センチメンタル・ジャーニー』で「伊代はまだ16だから」と、詞の中に歌手本人の名前を入れた。1970年代にない遊び心を感じました。あの軽さが82年組の原点。

売野:ハード面で言うと、洋楽と同じように、曲を先に作って詞を後で付けるようになりました。スタジオで曲を録音しておけば、あとは詞を待てばいい。必ず発売日にリリースできるようになり、アイドルの量産体制が生まれた側面もあるかもしれません。

松下:82年組はヤックン(薬丸裕英)と石川秀美ちゃんが結婚したように、同期が仲良さそうでしたよね。そういう意味で、人間らしいアイドルの始まりだった気もします。

太田:中森明菜さんは他のアイドルと一線を画していましたよね。デビュー曲の『スローモーション』はアイドルの王道で淡い恋を歌った。それが2曲目の『少女A』でツッパリ路線に180度変わった。作詞された売野さんは路線変更を意識したんですか?

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