「日出ずる処…」隋の皇帝激怒の国書で日本は独立自尊を宣言

NEWSポストセブン / 2018年9月14日 7時0分

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隋の皇帝・煬帝(中央) Bridgeman Images/AFLO

 日本が西洋列強に植民地化されずにすんだのは、明治維新によって近代化が図られたからとの指摘は多い。だが、歴史を俯瞰すれば、その分岐点ははるか昔、推古朝まで遡る。神道学者の高森明勅氏が解説する。

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 日本史上、最大の転機はいつか。「天皇」登場の場面だろう。わが国にいまだ「天皇」が存在しない段階と、はっきり「天皇」が出現して以降の段階。日本の歴史は、大きくつかめばこの二つに分けて考えることができる。では「天皇」はいつ、どういう理由で出現したのか。その歴史の真実に迫るためには、はるか古代の七世紀にまでさかのぼらなければならない。

 当時、わが国の外交姿勢はどうだったか。朝鮮半島の百済や新羅とは外交関係を保っていた。両国との関係については、シナの歴史書『隋書』倭国伝にこうある。「新羅・百済では、倭国を大国で珍しい物が多い国と考えて、両国とも倭国を畏(かしこ)みうやまい、常に使節を往き来させている」と。わが国の方が上位に立って外交を結んでいた様子がうかがえる。

 一方、シナ大陸の王朝との関係はどうだったか。大陸では王朝が南朝と北朝に分裂した状態が続いていた。そこでわが国は、すでに百年以上も正式な交渉を持っていなかった。ところが事態は一変する。六世紀末に隋が大陸を統一したのだ。

 半島の高句麗・百済・新羅の三国は早々と隋から「冊封」を受けていた。冊封とは、前近代、シナ皇帝が周辺国の君主に冊書(辞令)を与えて、「皇帝」より下位の地位である「王」などに封じる(任命する)こと。これによってシナ帝国に対し、周辺国は従属関係に入る。こうした両国の関係を「冊封関係」といい、冊封関係によって形づくられる国際秩序を「冊封体制」と呼ぶ。その体制下の国々は当然、シナ文明の巨大な影響のもとにおかれる。

 わが国も、以前は冊封体制に組み込まれ、シナ帝国に対して従属的な地位にあった。邪馬台国の卑弥呼や〝倭の五王〟の時代だ。その頃の君主の称号は、朝鮮の三国と同じ「王」だった。

 隋が大陸を統一した以上、日本も王朝分裂時代のように没交渉を続けるわけにはいかない。外交関係の再開は避けられない。その場合、ふたたび冊封体制下に舞い戻るのか。それとも別の道を選ぶのか。わが国はこの時、重大な岐路に立たされた。当時の君主は女性の推古天皇。聖徳太子と蘇我馬子が天皇のもとで国政を支えていた時代だ。

◆「王」に逆戻りはあり得なかった

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