関東と関西が違うのは当然 1つの日本観は明治期に作られた

NEWSポストセブン / 2018年9月16日 7時0分

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明治6年の銀座。近代化のため東京一極集中が図られて関東が主役に AFLO

 明治維新から150年。政府の近代化政策によって日本列島の均一化が進んだが、いまなお多くの日本人が関東と関西の「断層」を感じている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は日本は長らく一つではなかったと指摘する。

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 関東と関西がまるで違うのは、当たり前です。日本が昔から一つであったとする「日本観」が作られたのは、明治の御一新の後ですからね。後述しますが、歴史的にみれば、「関西」という呼称は新しく、「上方」と呼ぶ方がしっくりきます。

 日本は、朝廷のある畿内が関東というフロンティアへ進出していく形で成立しました。その意味で〈原日本〉の政治、経済、外交の中心は長らく畿内でした。

「関東」の呼称が生まれるきっかけは、天武元年(西暦672年)の「壬申の乱」でした。大友皇子に対して反乱を起こした大海人皇子(後の天武天皇)は、畿内から東国につながる不破の道(東山道)を封鎖して東国で兵を集めました。

 律令国家と言っても朝廷が完全に統治できていたのは畿内であり、東国は律令が顧みられることのない弱肉強食の世界で、人々は武装して自衛するしかなかった。そのため兵を集めるには東国が適していたわけです。

 兵を集められなかった大友皇子が敗れたあと天武天皇の命で東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道に愛発関と、東国から畿内に入る幹線道路に三つの関所が設けられました。侵略者は東からやってくるという認識だったのです。

 これらの関所より東の地域が「関東」と呼ばれるようになりました。都の人々は自分たちが日本の中心にいると考えているわけですから、「関西」などという認識はありません。江戸時代になっても、もっぱら「上方」が使われました。

 いわゆる〈原日本〉の序列は畿内、次いで博多を中心とした九州など西日本、そして関東を含む〈それ以外〉です。博多は古くからチャイナタウンがあり、朝鮮半島、中国に面した交易の中心、文化の先進地でした。

 三関の設置から250年以上も経って起きた平将門の乱、さらに200年以上後の鎌倉幕府の成立をもってしても、関東が畿内と拮抗する地位についたとはいえません。なぜなら、鎌倉幕府成立後も、依然として〈原日本〉の行政を差配していたのは朝廷だったからです。鎌倉幕府はあくまでも軍事部門を中心とした地方勢力に過ぎませんでした。

 転機は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵し、武家集団がはじめて朝廷を破った「承久の変」(西暦1221年)でしょう。それまで朝廷は「武家集団など、勅令で服従させられる」と思っていたはずですが、この承久の変で、はじめて権威と権力を忽せにされてしまった。

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