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東京五輪招致委員会「女性隊長」のリーダーシップ

プレジデントオンライン / 2013年8月21日 9時45分

■個性派集団をまとめるときやってはいけないこと

スーパーウーマンは忙しい。

荒木田裕子、59歳。2020年東京五輪パラリンピック招致委員会のスポーツディレクターとして、世界を飛び回る。5月下旬から、大事な招致プレゼンテーションを実施したロシアのサンクトペテルブルクからスイスのローザンヌ、シンガポール、ソウル、はたまたローザンヌ……。

6月の1カ月で日本に滞在したのはわずか6日だった。日本オリンピック委員会(JOC)理事、JOCアスリート専門部会長でもある。つまりは東京招致の最前線に立ち、国内のアスリートたちをまとめている。

6月某日、台風接近の午後、東京都内のホテルのカフェでインタビューは強行された。風邪気味ゆえか、メガネの奥の目に疲労の色がにじむ。

疲れは? と聞けば、ぴしゃりと言われた。「ない」と。

「世の中にはもっと忙しい人はいっぱいいる。それに比べたら、わたしの人生、ラクだと思う」

その馬力、いやモチベーションはどこからくるのか。

「やっぱりオリンピック・パラリンピックを日本に持ってきたいもの。わたしにとって4回目の招致だけど、これほど本気になったことはなかった。前回はウオームアップなしで、いきなり走れと言われた感じだった」

過去の3回とは、1988年名古屋、08年大阪、16年東京の招致活動を指す。4年前の投票で決まった前回の東京招致では、荒木田はJOC理事となって途中から参加した。

4年前のコペンハーゲン、IOC総会の投票直前、荒木田はプレゼンターの1人として熱弁をふるった。結果は、リオデジャネイロに敗れた。複雑な心境だったことをおぼえている。

「負ければ悔しいけれど、ほんとうにやるだけのことをすべてやり切ったのか、という自問があった」

完全燃焼できたのか、ということである。どこか中途半端な気持ちがあったのだろう。敗戦の夜、ホテルで泣きながら、選手たちと一緒になって、招致委会長の石原慎太郎都知事(当時)に訴えた。もう1回、五輪招致にチャレンジしてください、と。

「アスリートは1回であきらめてはいけない。何事も、できるまでやるんだって。ははは。たしか石原さんの目もウルウルしてきて、もう1回やっていただけると思った」

荒木田は日本に戻ると、選手たちのネットワークづくりを始めた。それまでオリンピアン(五輪選手)はJOCと同じく文部科学省管轄、パラリンピアン(パラリンピック選手)が厚生労働省管轄との区別があった。が、荒木田はそんな垣根をとっぱらい、JOCのアスリート専門部会にパラリンピアンをオブザーバーで加えた。

アスリートをネットワーク化し、五輪パラリンピックの勉強会を発足させた。オリンピアンでも国内にはざっと4000人はいる。パラリンピアン、アスリートを加えると、無数の人が全国各地にいることになる。そのパワーを結集させるのだ。

「おたくの町内の五輪選手を発掘してくださいって。その地元の選手たちにも盛り上げてもらって、うねりをつくっていく。オリンピックムーブメントってスポーツを通じて世界平和に貢献しようということだから」

面倒見のよさは生来のものだろう。自然と周囲から慕われる。JOCのアスリート専門部会では選手たちから「隊長」と呼ばれる。先日も「隊長、ついていきます」と言われた。苦笑しながら説明する。

「“あなたが、先、行ってよ”って。わたしもう、シニアメンバーだから。つい最近まで“おネエ”だったり、“ママ”だったり、もうたまらない」

選手に対応する際、大事にしているのが「平等」と「情報の共有」である。

「トップアスリートは個性が強いけれど、わたしは個性には合わせない。ただ、みんな平等に扱っている。オリンピアンもパラリンピアンもノン・オリンピックの選手も、みんな一緒なの。そして情報は必ず、全員で共有する。いいも悪いも、ありとあらゆる情報をみんなに流す。隠し事は嫌いなんです」

情報が偏ると、互いに疑心暗鬼になったり、陰口をたたいたり、ロクなことがない、と言う。メールでも、情報はほとんどを一斉送信する。

あまりパソコンを見ない人たちには、携帯電話にショートメールを送る。〈メール入れました。パソコンみてください〉と。

■人を動かすのはパッションとチームワーク

荒木田はバレーボール選手だった。76年モントリオール五輪の金メダリストである。

じつは五輪では出場機会にあまり恵まれなかった。73~77年W杯まで日本代表選手として活躍したが、五輪時は代表メンバーがあまりにも強力だったからである。

「ピンチ要員だったから、汗をかいていなかった。それで金メダリストと言われることがおこがましいというところがあって、世間から隠れて歩いているようなところがあったのです」

イベントに出るたび、紹介で「五輪金メダリスト」との枕詞がつく。それがイヤで、バレーボールとは関係のない仕事をしようと思った。78年3月に現役を引退し、日中は日立バレーボール部のコーチをしながら、共立女子短期大学の夜学に通い出す。

向上心の塊、負けず嫌いの塊だったのだろう。仕事と勉強の両立は厳しかった。睡眠時間は2時間程度。「疲れているだけで充実感がない」生活だった。

そこにスイスのバレーボールのクラブから選手兼コーチのオファーがくる。大学を休学し、80年2月、スイスに。26歳だった。コトバの重要性を知り、ドイツ語の勉強を始めた。ドイツ語学校へ、毎日2時間をかけて通った。

81年9月、転機が訪れる。西ドイツ(当時)のバーデンバーデンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会だった。サマランチ会長が立ち上げた50人ほどのアスリート委員会に、国際バレーボール連盟(FIVB)とJOCの代表として参加した。会議の合間に名古屋五輪招致も手伝った。国際スポーツ界の広さと深さ、オモシロさを知った。

英語の必要性も感じ、有り金はたいて今度はイギリスに渡った。1年間、英語の勉強に集中した。ついでに言えば、このとき知り合った英語教師とのちに結婚することになる。

87年、帰国した。一時は通訳もしたが、堪能な英語とドイツ語、さらには誰とでも親しくなる人柄で、活躍の場を広げていった。JOCの研修制度を利用し、英国オリンピック委員会でも働いた。海外の人脈は豊富だ。

バレーボール協会でも要職を歴任し、昨年のロンドン五輪では、女子強化委員長として日本代表女子の銅メダル獲得を支えた。荒木田は言う。

「オリンピックに出られたからこそ、いろんなことで頑張ってこられた。(五輪とは)自分のすべてを捧げて臨むもの。あの感動、充実感を経験したら、なかなか離れられない世界なのです」

20年東京五輪パラ招致レースは大詰めを迎えた。

荒木田は東京招致委のスポーツディレクターとして大車輪の働きをしている。昨年は、東京の施設計画について、五輪とパラリンピックの国際競技連盟から承認をもらった。ことし3月、IOC評価委員会が来日した際は、競技場視察の案内役と説明役をこなした。

今回の招致活動の特徴は、アスリートが前面に出ていることである。評価委の来日の際も、レスリングの吉田沙保里やサッカーの澤穂希、車いすテニスの国枝慎吾ら、30人ほどの選手がプレゼンや会場案内役を担った。イスタンブールやマドリードと比べ、東京はオリンピアンの多さをアピールできた。

「16年招致より、今回の招致は、オリンピアンの参加者がものすごく多い。東京のウリは“アスリート・ファースト”。競技場は選手村に近いし、選手村の設備もいい。ほとんどのアスリートが同じ選手村で過ごし、交流できるのは、初めてじゃないですか」

東京の長所がコンパクトな開催計画、安定した財政力、運営能力……。サンクトペテルブルクでのプレゼンでは、「不確実な時代の確実な五輪」「安全・安心・確実な五輪」を訴えた。

「パッション(情熱)」と「チームワーク」がキーワードだった。「いいチームだった」と荒木田は述懐する。

「全員がどうしても東京にオリンピックを持ってきたいんだという熱い思いは伝えられたかナ、と思う」

荒木田は「スポーツの力」を信じている。とくに11年の東日本大震災のあと、アスリートの果たした役割を強調する。何人もが被災地を訪ね、「逆境に打ち勝つ力」をサポートした。

JOCのアスリート専門部会で選手のアンケートをとったことがある。選手から被災地体験のメールが届いた。〈被災地に支援にいったのに、逆に頑張れと言われてうれしかった〉〈海外からも復旧・復興への祈りが届いていた。我々は世界に“ありがとう”という感謝を示さないといけない〉。

深夜、パソコン画面のメールを見て、なぜか荒木田は泣きそうになった。

「わたしは東京のWHYは“ありがとう”だと思う。日本は(64年の)東京五輪で大きく変わった。また震災で世界から応援や祈りをもらった。そのお礼や“これだけ元気になったんだ”と感謝の気持ちも込めて世界に何かを発信すべきだと思う」

6月中旬の国内オリンピック委員会連合(ANOC)総会では、東京は女子体操の田中理恵がプレゼンに加わった。イスタンブールの反政府デモの騒動を意識してか、東京は「安全」を強く訴えた。7月上旬のテクニカルブリーフィングでも手堅い計画とアスリート・ファーストを前面に押し出した。

評価委員会のリポートも公表された。たしかにイスタンブールの勢いは衰えた感があるけれど、IOC委員の投票行動はよくわからない。マドリードの抱える経済問題も同様で、五輪開催は7年後、投票では直近の問題にはこだわらないのがIOCの慣例である。

招致レースは混とんとしている。3都市が横一線か。ただ安定志向の風が国際スポーツ界に吹き始めている。

「その風をどう、東京にうまく取り込んでいくかということ。まずは失敗しないことが大事でしょ。変な発言はしないよう、慎重に慎重に動いていかないといけない」

ただ東京にはアスリートの“熱”を感じる、と荒木田は言葉を足す。

「日本が誇れるのは、これだけ一生懸命になっているオリンピアン、パラリンピアンがいるっていうこと。20年に向けて、オリンピックムーブメントを全国展開していくことが大事。アスリートが招致活動に加わることによって、いろんなことに興味を持ち始めている。日本の国際スポーツ力アップのきっかけにもなってほしい」

荒木田の頭にはいつも、アスリートの自立がある。国際スポーツ人の育成がある。五輪運動の推進がある。

そういえば、荒木田はJOCで、トップアスリートの就職支援ナビゲーションシステム「アスナビ」も主導している。いわばシュウカツ応援。

「わたしは、アスリートに後悔するような人生を送らせたくない。オリンピックを目指している人たちの応援団長になってあげたいの」

耳たぶには金色の馬のカタチのピアスが光る。来年、還暦を迎えるウマ年生まれの応援団長。東京五輪招致の成功、さらにはアスリートの充実した環境づくりに向け、駿馬のごとく、世界を駆け回る。

(ノンフィクションライター 松瀬 学)

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