会社勤めを60歳で断絶するための"設計図"
プレジデントオンライン / 2018年5月5日 11時15分
※本稿は、髙橋秀実『定年入門』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。
■しっかり試算きっぱり引退
「会社でもみんなに言われました。『えっ辞めんの?』『なんで辞めるの?』『辞めてどうするの?』『商売でも始めるの?』とか」
そう語るのは、3カ月前に印刷関連会社を定年退職したばかりの南村由香里さん(60歳)。彼女によると、同社ではほぼ全員が再雇用に応じるらしく、彼女のように60歳の定年で辞める人は珍しいそうだ。
「それだけじゃありません。中には『お金あるんだねえ』と言う人もいました。『辞めるとヒマだよ』『辞めるとボケるよ』などと忠告してくれる人もいたんです。でもその人たちは定年後も辞めてないんです。心配してくれるというより、みんな辞めるのがこわいんじゃないでしょうか」
確かに会社勤めというのは生活習慣でもあり、定年退職はその断絶である。南村さんによると、「自分がいなくなったら会社が困る」と信じたい人も多いそうで、裏を返せば自分の仕事や既得権を守りたい。それを手放すのがきっと「こわい」のだ。
――南村さんはこわくなかったんですか?
私が問い返すと、彼女は即答した。
「ないです。ちょっとでもこわいと思ったら辞めませんよ」
――では、なぜ辞めたんですか?
「単に経済的な理由です。将来のことを試算してみたら大丈夫だったので辞めることにしました。37年間同じ会社にいましたし、再雇用されてもたぶん同じ仕事。忙しさは変わらないのに給料がガクーンと減るだけですから」
■入社以来、肩書ナシ
彼女は辞める3年前から周囲に「60になったら辞めますから」と宣言していたという。
「その仕事は3人のチームでやっていました。『私は辞めるから今すぐ人を入れてください』と上司に訴え続けたんです。おかげでチームは6人に増えました。それで私はフェードアウトできたわけです」
自らの「定年」を利用して、人員の補強を図ったのである。
――当時の役職、肩書は何だったんですか?
「ないです」
きっぱり答える南村さん。
――ない?
「入社以来、一度も役職には就いていません。チームのリーダーではありましたけど、肩書は一切なし。人事権も決裁権もなかったんです」
守るべき既得権もなかったそうなのである。ちなみに彼女が就職した当時は、男女雇用機会均等法も制定されておらず、4年制大学を卒業した女性たちの就職はきわめて困難だった。彼女は大卒だが、入社時は「短大卒扱い」。人事からは「2年は勤めてください」と勧告され、同期入社の女性たちは彼女を除いて全員が2年勤めて辞めていったという。
■「結婚退職」というセクハラが当たり前だった時代
今にして思えば驚くべき話だが、ほとんどの会社で「結婚退職」は当たり前のこととして横行していた。結婚すると女性だけが解雇されるわけで、憲法上の性差別に当たる。
なぜこのようなことができたかというと、会社側は解雇ではなく、自発的な退職を迫っていたからなのである。いわゆる「肩叩き」というもので、結婚したら机を撤去する、仕事のない部署に配置転換したりする。
これらを不当と訴えた「山一証券結婚退職訴訟」(名古屋地方裁判所 昭和45年8月26日)の記録を読んでみると、女性は会社側から「山一としては結婚したらやめてもらうことになつているからやめてくれ」「他を斡旋してやるから退めなさい」「そういう男性を選ぶからだ」とまで威嚇されたそうだが、会社側は「結婚退職制は全く存在しない」と反論した。
それは「一つの慣行となつているものの、これはなんら強制力を持たないもので、専ら女子社員の自発的な意思のみによつて維持されている」とのことで、威嚇に関しても「女子社員の結婚後における作業能率などを考慮した一般的な見解を述べた」にすぎず、「少しの注意を払えば、会社に結婚退職制が存在しないことを知り得た筈」などと女性の無知を責めている。
要するに制度ではなく、空気で会社を辞めさせる。社内の空気で退職に追い詰めていくのだ。
――南村さんは辞めなかったんですね。
「だって辞める理由がないでしょ」
■「前例がないから、自分でルールをつくった」
誰も「2年で辞めろ」とは言っていないし、肩叩きがあったわけでもない。彼女は周囲に流されず、結婚した後も勤務を続け、30歳で娘さんを出産。社内では前例がないことで、「産休」「育休」などの制度もなかったという。
「娘を出産した時はさすがに『辞めようかな』と思いました。でも夫や家族に『もったいない』と言われまして。ウチの両親なんか『子供の面倒は見てやるから』とまで言ってくれまして。私自身、仕事が面白かったんです。海外事業部にいたので海外出張にもよく行けたし。そうなると辞める理由がないでしょ」
出産の8週間後に会社に復帰。体調も含め、さぞかしご苦労されたのではないかと思いきや、「そうでもありません」とのこと。
「前例がないから、自分がルールをつくったんです」
――ルール?
「例えば、子供が熱を出した時は会議を代わってもらう。書類を家まで持ってきてもらう。2、3日、会社に行かずに家で仕事をするとか。私がやることで『そういうものなんだ』ということになるわけです。会社の人たちも本当に協力してくれました。中には眉をひそめていた人もいるかもしれませんが、それは知ったこっちゃないです。要するに、図々しかったんですね」
南村さんは口調こそ物静かだが、断固たる意志を貫く人のようである。
「その点、逆に今のほうが厳しいんじゃないでしょうか。私の時は私ひとりだから、好き勝手、好き放題じゃないですか。今は産休も育休制度もきちんとできているので、その中で人と比較される。働きぶりを比べられちゃうんで、むしろ大変だと思いますね」
■「会社に行く」という気持ちだけでストレスになる
彼女が最初に「定年」を意識したのは、48歳の時。娘さんが大学受験に失敗したことがきっかけだったという。予備校やその後の学費、夫と自分の収入、生活費、貯金、年金などの計算表をエクセルで作成。娘さんは翌年には大学に合格し、卒業後は仕事に就いて結婚したので、試算上は60歳で会社を辞めても「問題なし」という結論に至ったらしい。
「それにもう体力がもちません。50歳を過ぎてからホルモンの関係からか、とにかく疲れがとれない。膨大な書類をチェックするので腱鞘(けんしょう)炎にもなるし、目もくたびれる。パソコンのマウスを持っている右のほうに体が傾いてしまい、左右のバランスも悪くなる。歩いていると知らないうちに壁にぶつかったりしたんです。
毎週鍼灸院に通って治療していたんですが、治療しても1週間も経たないうちに元に戻っちゃう。それと『会社に行く』という気持ち、それだけで実は相当のストレスになるんです。納期のこと、何日の何時までに何をしなくちゃいけない、と同時に4つ5つのことを考えますから神経がピリピリする。それに……」
彼女は堰を切ったように語り続けた。これまで理由がないから辞めなかったが、今度は理由があるから辞める。辞める理由は存分にあるのだ。
■やりたいことを30個書き出し、マッピング
――それで、辞めてどうされたんですか?
私がたずねると、彼女ははにかんだ。
「まず、やりたいことを30個、書き出しました」
――30個もあるんですか?
「20個まではサクサク出てきました。あとの10個はひねり出す感じですね」
――それで30個に?
「はい。どうしても30にしたかったんです」
数値目標ということか。聞けば、その内容とは「家の整理整頓」「家のリフォーム」「鉄道旅行」「筋トレ」「水泳」「ピアノを習う」「時代小説を読む」「ぬか漬け」……。
「課題出しをしてマッピングするんです」
――マッピング?
「X軸とY軸をつくるんです。X軸のほうは左が生活で右がレジャー。Y軸は上が健康で下が教養。各課題をそこに点として落としていく」
――それで?
「X軸とY軸で区切るので4つの面になりますよね。落としてみたら各面がそれぞれ8個くらいの点になったんです」
うれしそうに語る南村さん。
――それが……。
だから何なのか、私にはよくわからなかった。
「これってバランスがいいってことなんです」
――そうなるんですか。
例えば、「筋トレ」は健康とレジャーで区切られた面。「ピアノを習う」はレジャーと教養の面。「ぬか漬け」は生活と健康の面。各面の点数が均等でバランスのよい定年後ということらしい。
■「バンバン捨てました」
――それを順次こなしていくわけでしょうか。
「今取りかかっているのは、『家の整理整頓』。要するに片付けですね。母(88歳)とも同居しているので1階をバリアフリーにするつもりなんです。さらに耐震補強と断熱工事などもしたいので、とにかく家を片付けなきゃいけない」
彼女のマッピングによると、「家の整理整頓」の点は生活の線上にあるが、教養のほうにも少しかかっている。
「私は掃除は嫌いなんですけど、片付けは好きなんです」
会社員時代も彼女は整理分類が好きだったらしい。「保留引き出し」をつくり、とりあえずそこにすべてを入れておく。1週間寝かせて一気に分類し、使わない書類は即シュレッダーにかけたのだそうだ。
「はみ出しているものがそこに納まる、この『入った』という感じが好きなんです」
整理して収納することが趣味のようなのである。家の片付けにあたって、彼女はルールを定めたという。
(1)忘れているものは捨てる。
(2)思い出に耽らない。
服や日用品については原則1年を保留期間とし、1年間使わなかったら捨てる。そして捨てる際にいちいち何かを思い出さないようにする。定年退職の際、会社から表彰状をもらったが、それも「バンバン捨てました」とのこと。
――いいんですか、捨てても?
「思い出だけあればいいんです。モノがなくなっても思い出は残りますから」
モノはモノにすぎない。彼女にとって「片付け」とは、モノとそれに付随する思い出を切り離す作業なのである。
■危うきにあった時は、すべからく捨てるべし
30個の課題リストの中で私が目を留めたのは「囲碁」だった。中高年の男性たちの間では人気だと聞いていたが、彼女も好きなのだろうか。
「課題出しの際に『これまでやったことがないこと』を入れたかったんです。他のことは大抵は少しはやったことがありますからね。やったことがない究極のことは何か? と考えてみたら囲碁だったんです」
――それでやってみたんですか?
「アプリをダウンロードして1日1時間はやっています」
――そんなに?
「これすっごい面白い。私に合ってるんです」
定年後に目覚めたことのようで、彼女は興奮ぎみに語った。
――どういう点が面白いんでしょうか?
彼女はさらりとこう答えた。
「だって囲碁ってマッピングですから」
偶然かもしれないが、囲碁の碁盤は先程説明してくれたマッピングの座標に似ている。そこに点を打っていくというのも共通しているのだ。ちなみに囲碁は碁石を交互に打って、より多くの陣地を取ったほうが勝ち。相手の石を囲めば自分の石にできるのだが、全体のバランスも見渡さなければいけないというのがゲームの妙味らしい。
囲碁の世界には「囲碁十訣」という10カ条の戒めが伝えられている。あらためて読んでみると、そのうちの3つに「棄」「捨」、つまり「捨てる」という意味の言葉が入っていた。
「棄子争先」
「捨小就大」
「逢危須棄」
順に説明すると、「子(石)を捨てて先を争うべし」。犠牲を払ってでも先手必勝ということ。石とは過去に打った石なので、過去を捨てて先手を取れ、とも解釈できる。次の戒めは「小を捨てて大につくべし」。局部にこだわらずに大局的に打て。そして最後は「危うきにあった時は、すべからく捨てるべし」。危険を感じたら当然捨てなさい、という戒め。いずれにしても捨てることで前に進む。南村さんのお話と重なるようで、リフォームにしても陣地は確実に固めているようである。
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ノンフィクション作家。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『にせニッポン人探訪記』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『結論はまた来週』『男は邪魔!「性差」をめぐる探究』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』など。
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(ノンフィクション作家 髙橋 秀実 写真=iStock.com)
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