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「小泉訪朝」を評価する人は外交オンチだ

プレジデントオンライン / 2018年7月4日 9時15分

2002年9月、首脳会談を終えて「日朝共同宣言」に署名し、握手する小泉純一郎首相(当時、左)と北朝鮮の金正日労働党総書記(写真=時事通信フォト、代表撮影)

安倍晋三首相は日朝首脳会談を再開できるだろうか。かつて小泉純一郎首相(当時)は2002年と04年の2度訪朝し、拉致被害者を連れ帰った。だが「北朝鮮に帰国させる」との約束を反故にしたため、その後、現在まで日朝会談は開かれていない。元外務省主任分析官・佐藤優氏は「小泉訪朝は失敗だった」と断言する。佐藤優氏と片山杜秀氏の対談をお届けしよう――。(第6回)

※本稿は、佐藤優、片山杜秀『平成史』(小学館)の第3章「小泉劇場、熱狂の果てに 平成12年→17年」の一部を再編集したものです。

■田中眞紀子外相が金正男を帰国させなければ……

【片山杜秀(慶應義塾大学法学部教授)】小泉政権のスタート時は、田中眞紀子が外務大臣でした。ポスト・ポスト冷戦時代に突入して、国際外交がもっとも重要視されていた時期にもかかわらず1年足らずで更迭されましたね。

【佐藤優(作家)】政権発足時、外務省ではほとんどの人間が田中だけは勘弁してほしいと考えていました。でも徐々に省内で田中派が強くなっていった。やがて死ぬまでついていきますという連中まで出てきた。

【片山】(苦笑)。そんな人たちがいたんですね。

【佐藤】主流派から冷遇されていた人には、田中外相誕生は出世のチャンスだったんです。

【片山】田中眞紀子が外相だった01年5月に金正男と見られる男が成田空港で拘束されました。しかし慌てて帰国させてしまった。彼を日本で確保しておけば、日朝外交の切り札になったのではないですか。

【佐藤】おっしゃるとおりです。でも、田中眞紀子が「そんなの怖いからすぐに帰しちゃいなさい」と政治主導で帰還させてしまったんです。また9・11直後に田中は、アメリカ国防省がスミソニアン博物館に避難しているという機密をマスコミにしゃべってしまった。ここでやっと外務省内でも田中に対する危機感が露わになった。

【片山】すごい話ですね。

【佐藤】田中は人の説明をまったく聞かないし、感情的に動く。パソコンにたとえれば、容量が非常に小さくて、OSが違うからどんなにいいソフトをダウンロードしてみても、どう動作するかが分からない(苦笑)。

■鈴木宗男の功績は、田中眞紀子と刺し違えたこと

【片山】それなのにあんな勝手なことを言っていたのですか。いま振り返っても恐ろしい。とはいえ、あの時期小泉首相と田中外務大臣を圧倒的多数の国民が支持した。いまや完全に過去の人ですが、田中眞紀子も首相候補の1人に数えられていました。

【佐藤】歯車が狂えば、田中首相誕生の可能性も確かにあった。そうなったらトランプとドゥテルテを足して3で割ったような騒動になっていたでしょうね。

佐藤優、片山杜秀『平成史』(小学館)

【片山】なるほど。日本はトランプ政治の混乱を先取りした可能性もあったのか。さすが「世界に冠たる日本」です(苦笑)。

【佐藤】そうです。だから鈴木宗男さんの政治家としての最大の功績は、田中眞紀子と刺し違えて公職から外したことなんですよ。

田中外相更迭のきっかけは、02年1月のアフガニスタン復興支援国際会議でした。鈴木宗男さんが出席予定のNGO団体に圧力をかけて参加を取りやめさせた、と田中が主張した。もちろんそんな事実はありませんから、鈴木さんは真っ向から対立した。

【片山】とはいえ、当時の田中眞紀子人気はすごかった。勝算はあったのですか。

【佐藤】おっしゃるように世間は圧倒的な田中支持です。私も「こんな状況で、田中さんを敵に回しても大丈夫なのですか」と聞きました。鈴木さんは「向こうは明白なウソをついている。いくら人気があっても大丈夫だ。事実関係について100対0なら勝負できる」と語り、国会で疑惑の追及に対して全面的に否定した。

その後、国会審議を混乱させたとして田中眞紀子は外相を更迭されて、鈴木さんも責任をとって衆議院議院運営委員長を辞任した。その後、宗男バッシングの嵐が吹き荒れ自民党も離党したんです。それからしばらくした02年5月、東京地方検察庁に私が逮捕され、6月、鈴木さんが逮捕されました。

■「拉致被害者を2週間で返す」という約束を破った

【片山】日朝関係が一気に動き出したのは、田中外相更迭後です。小泉訪朝が02年9月。日朝首脳会談が行われて、日朝平壌宣言が交わされた。5人の拉致被害者が帰国しました。さらに2年後には5人の拉致被害者家族も帰国した。拉致被害者奪還が小泉政権最大の功績という見方をする人が多い。佐藤さんは小泉訪朝をどう評価されますか?

【佐藤】9月17日ですよね。私の初公判の日だった。小泉訪朝のおかげで、私の裁判の記事が小さくてすんだ。個人的には、小泉訪朝には感謝しているんです。あれがなければ、一面トップで書かれていたかもしれません。

ただし、あの交渉には大きな問題があった。首脳会談を実現させた外務省の田中均が北朝鮮との約束を破ってしまったのです。

【片山】もともとは拉致被害者を2週間後に北朝鮮に帰す約束でしたね。

【佐藤】そうなんです。この外交には、小さな約束と大きな約束の2つがありました。小さな約束を守ったからといって、大きな約束を履行するとは限らない。ただし小さな約束に従わなければ、大きな約束に踏み切れない。

この場合、拉致被害者を2週間で北朝鮮に返すという小さな約束のあとに日本は経済支援を行い、北朝鮮は核と弾道ミサイルを廃絶するという大きな約束が履行されるはずでした。

【片山】しかし帰さなかった。いえ、日本の世論を考えれば、帰国させられる状況ではなかった。

■世論を読めなかった田中均

【佐藤】その世論の動きを読めなかったのが、田中均の最大のミスだった。外交官が両国からよく見られようとしたら交渉なんてできません。北朝鮮からは植民地主義の反省がないと叩かれ、日本でも北朝鮮の手先だと罵られる。そのぎりぎりのなかで交渉をまとめ上げなければならない。

彼は、約束を果たせなかった責任をとって辞めるべきだった。そうすれば、北朝鮮にも顔向けができた。ほとぼりが冷めたら政治家か、政治任用で田中に北朝鮮外交担当の職を与えることもできたわけですから。でも田中にはその覚悟がなかった。約束を履行できなかった責任も取らずに、先頭に立って北朝鮮を叩きはじめた。

【片山】小泉訪朝の失敗が今日の日朝関係の混乱を招いたと言えます。万景峰号を入港禁止にしたところで北朝鮮は痛くもかゆくもない。制裁強化というものの、もう制裁するものがない。今後どうすべきか。打つ手がありません。

作家の佐藤優氏(左)と慶應義塾大学法学部教授の片山杜秀氏(右)

■死亡診断書はその場で翻訳すべきだった

【佐藤】小泉訪朝にはもう1つ大きな失敗がある。1回目の首脳会談で北朝鮮は拉致被害者8人の死亡確認書を提出しました。しかし書類の中身を確認せずにすぐに受け取ってしまった。確認さえしていれば、なぜ死亡した日時や場所がバラバラなのに死亡確認書を発行した病院が同じなのかなど様々な矛盾点を指摘できた。

会談に同席できる人は限られていますが、同行する荷物運びや連絡役のスタッフ全員を朝鮮語の専門家にしておけば、受け取ったレポートをすぐに6、7等分にして全員で翻訳することができたはずです。実際、私は日露の小渕恵三・エリツィン会談ではこうした手法をとっていました。

【片山】合理的な説明がなければ、受け取らず突き返すという選択もできた。もっといい回答を引き出せたかもしれない。問題は中途半端な回答を受け取ったことで、生存中の拉致被害者がその後の日朝関係の変化で危ない目に遭った可能性も考えられる。

【佐藤】そうです。現場での瞬間的判断の問題です。うまくやっていれば、現在の日朝関係だけでなく、北朝鮮による軍事的な緊張状態も緩和できたかもしれません。

■なぜ小泉首相は2度目の訪朝を行ったのか

【片山】04年5月、小泉純一郎が再び訪朝して、5人の拉致被害者家族を帰国させました。世間はイラクの拘束事件とは逆に温かく迎えた。

【佐藤】小泉は、なぜ2度目の訪朝に踏み切ったのか。いや、なぜ再び訪朝しなければならなかったのか。これは外交の観点から見ると非常に分かりやすい。

先ほども話しましたが、02年の日朝平壌宣言で、北朝鮮が拉致を謝罪して核と弾道ミサイルの開発を止めれば、日本は経済支援を行うと約束した。しかし日本はその前提となる約束を破った。2週間で北朝鮮に戻すはずだった拉致被害者を帰国させなかったのです。とはいえ、そのまま放っておくわけにはいかない。

外交の世界では約束は絶対です。どんなに卑劣で極悪非道な相手でも約束を反故にした側に否がある。そう考えると2度目の小泉訪朝はお詫び行脚だったことが明白です。北朝鮮側からすれば「2年前の詫びを入れるなら、我々の高い人道的観点から家族を帰してやる」という言い分になる。

日本は、北朝鮮に外交上の借りがあったんです。この認識を持てないと日朝関係の構造が見えてこない。

【片山】拉致被害者やその家族を取り返したことには意味があった。でもその失敗は今の日朝関係に影を落としていますね。

日中戦争の経過を見ても外交上に様々な問題が起きています。いま振り返れば、あのタイミングでああしていれば、あそこでこうしていれば、と指摘はできる。しかし取り返しはつかない。歴史を決定付けるのは1つのミスです。

【佐藤】しかも、小泉訪朝の場合、交渉の記録が残っていない。それもまた問題です。

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佐藤 優(さとう・まさる)
作家
1960年、東京都生まれ。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了の後、外務省入省。在英日本国大使館、在ロシア連邦日本国大使館などを経て、外務本省国際情報局分析第一課に勤務。2002年5月、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕。2005年2月執行猶予付き有罪判決を受けた。主な著書に『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』(毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅賞)などがある。
片山 杜秀(かたやま・もりひで)
慶應義塾大学法学部教授
1963年、宮城県生まれ。思想史研究者。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。専攻は近代政治思想史、政治文化論。音楽評論家としても定評がある。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(この2冊で吉田秀和賞、サントリー学芸賞)、『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命』などがある。

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(作家、元外務省主任分析官 佐藤 優、慶應義塾大学法学部教授 片山 杜秀 写真=時事通信フォト)

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