「仲間は射殺された」アフガン派兵の恐怖
プレジデントオンライン / 2018年9月18日 9時15分
※本稿は、野田力『フランス外人部隊 その実体と兵士たちの横顔』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■武装集団3人に1人で囲まれた
今日、自分は死ぬかもしれない――。
フランス外人部隊の一員であった私には、コートジボワールに派遣された時期がありました。そのとき銃を持った3人と向かい合い、そう思いました。2006年のことで、26歳でした。
コートジボワールでは2002年から内戦が続いていました。この頃までには政府軍と反政府勢力のあいだで停戦宣言があり、武装解除の合意もなされていました。にもかかわらず対立構造は解消されていない状況だったのです。フランス軍は停戦の監視と治安維持のために駐留していました。そのパトロールに就いていたなかで、武装した集団に囲まれてしまったのです。私個人は1対3になりました。
私も銃を持っていました。しかし、グリップから手を離すようにと言われ、相手を刺激しないように従いました。一方で相手は、銃に弾を込めていたのです。相手が仕掛けてくるまではこちらから攻撃するわけにはいかず、漠然と死を覚悟しました。
相手が銃を撃つなどしてきたならどうするか、とも考えました。そのときに思ったのは、そうなればこちらも応戦するしかないということです。
自分は人を殺せる――とも思い至りました。
相手が誰であろうと、人を殺したくないのはもちろんです。それでも、戦地、あるいは戦地に準じた場所で自分が殺されるような状況になったなら、殺されないためにも応戦はできると確信しました。今もそうなのかといえば、わかりません。少なくともこのときはそう思ったということです。
■戦争がしたかったわけではない
私は2004年から6年半、フランス外人部隊に所属していました。
そのあいだに、コートジボワールやアフガニスタンなどに派遣されています。戦争が続いていたアフガニスタンでは、前線に近い場所での作戦行動にも加わりました。個人的にどれほどのことをしたかはともかく、戦争を経験したわけです。
私が外人部隊に入ったのは戦争をしたかったからなのかといえば、違います。もともとは自衛隊で災害救援に携わりたいと考えていたのにかなわず、生き方に迷っているなかで選んだ道でした。外人部隊に入ろうと決めたときも、戦地に派遣されるような可能性はそれほど高くないのではないかと思っている部分もあったというのが本当のところです。当時、戦禍の激しかったイラク戦争にフランスは派兵していなかったのです。
アフガニスタンでは、コートジボワールにくらべてもさらに近くに“死”がありました。
私は衛生兵としてアフガニスタンに行きました。衛生兵というと、戦場から離れた場所にとどまり負傷者をみているようにイメージされやすいのだと思います。そうではありません。私の場合、戦場では兵士として与えられた作戦に従事します。所属している隊が前線に行けば、衛生兵も前線に行きます。そのうえで負傷者が出た際などに救急活動を行うことになります。
「負傷者が出て、衛生班の増援が要請された。出番だ、行くぞ!」
そう言われて、銃撃戦が行われている場所まで駆けつけたこともありました。
連絡を受けた段階ではどのようなケガなのかはわからず、腕や脚などを撃たれたのではないかと思っていました。現場に着くと、1人の兵士が頭を撃たれていました。銃弾が額から後頭部へ貫通し、口から血を泡立たせて苦しんでいたのです。
■銃声が響く中で兵士の治療にあたった
誰なのかはわかりませんでした。個人の特定はできないほど顔が変形していたからです。1発の弾が額を貫通しているほかは外傷がなかったのに、内出血によって目蓋あたりが膨れあがり、顔は原型をとどめていませんでした。頭を撃たれると、ここまで顔が変わるものなのか、と驚きました。助かるような傷ではありませんでした。それでも軍医の指示に従い、その場でやれる限りのことはやりました。戦場でのことです。治療をしている最中にも「コンタクト!(接敵)」という声が飛び交っていたようで、銃声が響いていました。そういうなかにあって、なんとかその兵士を装甲車にまで運び込んだのです。
搬送後の無線連絡によって、初めて彼の名を知ることになりました。同じ中隊に所属するスロバキア人でした。しばらくすると、「ヘリコプターの中で彼は死んだ」という連絡もありました。装甲車でCOPと呼ばれる拠点まで行き、COPから国際部隊病院に搬送しようとしている途中で死亡が確認されたというのです。
私と一緒に治療に立ち会っていた衛生兵は悔しそうに「くそお」とつぶやきました。
そのときの私は「救えない命もあるのだから仕方がない」と考えました。治療しているときから、さすがに助からないのではないかと思っていたので、よくそこまで頑張ったな、と冷静に受け止めていたのです。残念ではあっても、悲しいとまでは感じませんでした。
アフガニスタンではそんな経験もしました。
最近は外人部隊に入ることを考える日本人も増えていると聞きます。そういう人たちがどこまで外人部隊を理解しているのかといえば、十分ではない場合が多いのではないかと思います。認識があまい状態で外人部隊への入隊を志願するのは決して勧められることではありません。まずはよく知ってもらいたい。
外人部隊に入ろうといった考えがない人に対しても、外人部隊がどんなところなのかを誤解しないでほしい気持ちもあります。
私のように戦地に派遣される場合もたしかにあります。しかし契約期間中、一度も戦地に派遣されないでいる部隊兵も少なくありません。戦地に派遣される場合にしても、在籍しているあいだのごく限られた期間だけです。それ以外の時間はどのように過ごしているのかといえば“鍛錬と我慢の毎日”です。大抵の人のイメージとは程遠いと思います。多くの時間は、掃除などをはじめとした雑用をしているのが現実なのです。
外人部隊とは何か?
それを正しく理解してもらうためにも、戦地にいるよりはるかに長い日常の時間についても知ってもらいたいと思います。
身近なところに戦争はあります。しかし戦争がすべてではないのが外人部隊です。
■5年で除隊する予定がアフガンへ
自分の所属する中隊にアフガニスタンへの派遣予定があると知るまでは、最初に考えていた「5年で除隊する」という気持ちは揺るがず、早く日本に帰りたいと思っていました。
それにもかかわらず、どうして契約を延長してまでアフガニスタンに行くことを選んだのか?
自分でもうまく説明はできませんが、理由はいくつかあったように思います。
ひとつは自分の経験のためです。今の日本で普通に生きていれば、戦場を経験する可能性はかなり低いといえます。5年間、外人部隊にいたのだからその経験をしてみたいという気持ちがあったのです。
ひと言で括れば「好奇心」ということになるのかもしれません。興味本位ではないにしても、自分のためです。
多くの人は、戦争はなくなったほうがいいと考えているのでしょうから、戦場を経験したいという気持ちなどは理解できないのだと思います。そういう意見は十分理解できます。私にしても、戦争という行為を積極的に肯定しているわけではありません。戦争がなくなり、平和な世の中になるならそうなってほしいのはもちろんです。しかし、戦争がなくならない限り、誰かがそこに行きます。そうであるなら、訓練を受けた自分が行くという選択肢はあるのではないかと考えたのです。
もうひとつは、自衛隊に入れず、日本で居場所をなくしかけていた自分を拾ってくれたフランスという国、外人部隊という組織への感謝の気持ちがあったからです。その恩返しとして、自分にできることをしたい気持ちも強かったのです。フランスに対しては第2の故郷という意識も芽生えており、愛国心に近い感情をもつようになっています。
「人生、一度しかないのだから」という思いもありました。
だからといって、死ぬかもしれない選択をすることは理解できないといぶかしがる人もいるはずです。そういう疑問を持たれるのもわかります。
私にしても、わざわざ死地に足を踏み込みたいとは思っていませんでした。それにもかかわらず行くことを決めたのは、「実際はそれほど危険な目に遭うこともないままに任務が終わるのではないか」いう考えがどこかにあったからだともいえます。
アフガニスタンに行けば、100パーセント、戦闘に参加することになり、自分が死ぬことになるとわかっていたとすれば、アフガニスタンに行く選択はしませんでした。
そうなる可能性はあっても、そうならないかもしれない。そういう精神的な逃げ道があったからこそ、踏ん切りがつけられた気がします。
こうして振り返ろうとしても明確な答えは出しにくいところです。さまざまな思いと不安に揺れ動きながらも、どうなるかはわからない、という部分で自分の気持ちを折り合わせていた気がします。
■親には「医療支援に行く」と嘘をついた
アフガニスタンに行くということは家族には電話で伝えました。
命の危険がないわけではないので、アフガニスタンに行くことは伝えておくべきだと思っていました。それでも、必要以上に心配をかけたくもありませんでした。そのため「大きな基地の中にある診療所に医療支援で行くだけなので危険はない」と話しておいたのです。
親はアフガニスタンと聞いただけでも驚いていました。そんな反応は最初から予測していたので、あらかじめそういう嘘をつこうと決めていたのです。
出発が数週間後に近づいてきた頃、あらためて死について考えて、怖くなってもきていました。
その頃には遺書を書いておこうとも考えました。法的な意味での遺書ということではなく、最後の手紙のようなものです。送る相手はそれなりの人数、思いつきました。
最初は、外人部隊に入る前にイギリスに住んでいた中学時代のALT(外国語指導助手)だった人に宛てて書くことにしました。しかし、何を書けばいいかと迷い、予想以上に時間がかかってしまいました。
次には親に宛てて書こうと思いましたが、何を書こうかと悩んでいるうちにやめてしまいました。結局、最初に書いたイギリスの知人に宛てた遺書も送りませんでした。
そうこうしているうちに恐怖心が薄れてきたというか、「あれこれ考えていても仕方がない」という気持ちになっていました。
考えようと考えまいと、死ぬときは死に、助かるときは助かる。
いつのまにかそう思い至り、自分の死についてあまり考えなくなったのです。
■死について深刻に考えないようになっていた
外人部隊を除隊して帰国したあとには、自衛隊の人たちと話す機会も少なからずあります。彼らからはよく「戦地に行く際の死生観はどのようなものでしたか?」と聞かれます。そんなときにどう答えればいいかは、やはり悩みます。
「死生観というほどの立派な心構えはありませんでした。死ぬことを考えていてもしょうがないから、その時々の状況において自分のやるべきことをひとつひとつこなしていこうと思っていたんです」
そんなふうに答えています。
実際にそれが現実の感覚に近かったといえます。
この頃の気持ちや精神状態はなかなかうまく表現できませんが、それほど深刻に死については考えないようになっていたことだけは確かです。
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フランス外人部隊パラシュート連隊・水陸両用中隊元隊員(2004年~11年)。アフリカのコートジボワールで治安維持活動に従事したのち、衛生兵としてジブチにて砂漠訓練を経験。ガボンにてジャングル訓練を受け、アフガニスタン戦争も体験する。帰国後は看護師免許を取得、自身の経験を伝える活動もおこなっている。
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(野田 力)
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