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「左遷人事だ」と騒ぐ人は、そこで終わる

プレジデントオンライン / 2018年10月11日 9時15分

写真=iStock.com/metamorworks

夜も眠れないような困難に直面したとき、「名トップ」と呼ばれる人たちは、なにを考え、どう動いてきたのか。「プレジデント」(2017年3月20日号)では、エステー、大和ハウス工業、ポルシェジャパンのトップに、場面別の対処法を聞いた。第2回は「人事で左遷された」について――。
QUESTION
人事で左遷された

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大和ハウス工業・大野直竹 社長の答え
自分の気持次第で左遷先は都に!そこでしかできない経験をしよう

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■慣れ親しんだ地から寝耳に水の転勤

左遷とはちょっとニュアンスが違いますが、自分がまったく意図しないタイミングで会社から転勤の辞令を受けたことがあります。私は最初に配属された静岡支店に17年半いたんですが、十数年経った頃には静岡の地に自分のサラリーマン人生の骨を埋める覚悟でいました。だから静岡に家も買いましたし、地元の人たちともそういうお付き合いをさせてもらっていた。静岡は暖かいですから、コートなんてずっと持たないで生活していました。

そんなある日、当時の上司で取締役特建事業部長だった樋口武男現会長から電話をいただいた。転勤の内示でした。転勤したくないみたいなことも言ったんですけど、サラリーマンですから通るはずがない。

「ひとつ条件を出していいですか。私、寒いところが苦手なんです」と小さな抵抗を試みたら、電話の向こうで「う~ん、あそこは寒いな」って。転勤先は新潟でした。

調べてみたら、当時の新潟支店は伸び悩んでいた。「これから大変だなぁ」って思いながら支店長として赴任したんです。でも新潟の地場の皆さん、企業さんとお付き合いさせていただくと、予想外に楽しいことがいっぱいあった。おかげさまで4年と8カ月、すごく楽しい時間を過ごさせていただきました。どっぷり浸かる、という感じです。後から感じたのは、新潟転勤は会社が私のためにやってくれたことだったということ。「あいつも静岡が随分長くなったから、この辺でもうちょっと活躍の場を与えてやろう」という配慮だったんですね。

「左遷された」というのは当人の受け止め方の問題であって、そこに飛び込んでいく気持ちがあれば「左遷」ではないと思います。我々は全国に83の支社・支店がありますが、地元の人たちと仲良くして、地元の経済になじめば、どこに行っても幸せになれると思う。今でも何人かはお付き合いがありますが、静岡や新潟で出会った人たちには感謝の気持ちしかない。

新入社員が入ってくると、決まって言うことがあるんです。東京とか大阪とか、名古屋とか、大きい店に配属されて自分は幸せだと考えないほうがいいよ、と。

■同じフロアにさまざまな部署の人

私が新人のときに静岡支店に配属されてよかったと思うことのひとつは、所帯が小さいから同じフロアにいろいろな仕事をやっている人がいて、接する機会が非常に多かったことです。戸建て住宅の営業をやっている人もいれば、集合住宅の営業の人もいるし、流通店舗の担当もいる。隣で打ち合わせしている声が聞こえてくるわけです。もちろん話の内容はわからないことのほうが多い。そういうときは先輩方や同期の連中に聞いて、今どんなことをやっているのか教えてもらいました。

セクションの垣根を越えて自分の悩みを相談したり、逆に向こうが抱えている問題点やうまくいったこと、失敗したケースなどを教えてもらったりしながら、網羅的に業務を覚えることができた。東京のような大きな店はフロアが違いますから、他部署との会話がそうあるわけじゃない。小さな店、中堅の支店に行ったから経験できることも多々あるんです。

結局17年半、静岡支店にいて、それぞれの営業所や課の成績や状況、「あの時代、こんなやり方で成功した」とか「こういう話の持っていき方でうまくいかなかった」という情報まで自然な形で蓄積できました。

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ポルシェジャパン・七五三木敏幸 社長の答え
次の場所で新たな目標を達成すべし。魅力的なチャンスが回ってくるはず。

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■ディーラーの数を増やせずCEOから営業本部長に

クライスラー日本のCEOになって3年目、12年にクライスラーとフィアットの日本法人が統合したときに、私はCEOを解任されました。

アメリカ本社が求めるレベルの再建には至らなかった。3年間で販売台数を3倍に増やす目標は十分に達成できたんですが、ディーラーの数がまったく増やせなかった。倒産ブランドが新規の販売店をつくるのは難しい。そういう意味ではある程度は納得していました。本社のCEOから「今後の身の振り方についてはオファーが3つあるから、選んでくれ」と言われて、私が選んだのはクライスラーとフィアット兼任の営業本部長でした。

社長を降ろされて営業本部長というと皆さんから「大変だね」と言われる。でも私にとって慣れ親しんだ世界です。メルセデス・ベンツではいろいろなディーラーさんの母体とお付き合いさせていただいた。クライスラーにはクライスラーのディーラー母体があるし、フィアットのディーラー母体もまた違う。営業本部長になればまた現場の付き合いが広がって、新しい知り合いがどんどん増える。

■「リタイアする日を指折り数えて堪え忍ぶ」でいいのか

新しい仕事をやって、信頼を得て新しいつながりができれば、もっといい仕事に巡り合えるかもしれない。そういう気持ちのほうが強かったですね。

私の友人でも、50歳過ぎて役職定年を迎えて、出向するケースが多い。大概は敗残兵みたいな気持ちで新天地に赴いて、リタイアする日を指折り数えて堪え忍ぶ。でもそうじゃない人も何人かいますね。行った先で前向きな目標をつくってチャレンジする。出向先で部長、役員、取締役、専務と上がって、17年から本社の副社長に復帰した友人もいる。

与えられた条件の中で前を向いて頑張っていれば、チャンスも回ってくると思います。

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エステー・鈴木 喬 会長の答え
おめでとう! 同じ毎日から脱出。張り切って困難に立ち向かおう

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■アメリカ人100人に日本人1人で奮闘

財務担当役員をしていた頃、買収したアメリカの子会社の粉飾を決算書から見破ったことがありました。周囲の反対を押し切って現地調査に飛んで聞き取り調査をした結果、「順調」と書かれていた業務報告書の嘘が次々と発覚した。経営状況は最悪で、私は激怒して子会社の社長と会長を即刻クビにしました。

そうなったら誰かが会社を立て直さなければならない。仕方がないから自分が社長をやることにしました。自分で自分を左遷したようなものですよ。アメリカ人の従業員約100人に日本人は私1人。日本語はまるで通じない。それでも半分はリストラしないと立ち行かないから、怖じ気づいている暇はない。

まず一番強いヤツを叩き伏せる。私のケンカ必勝法です。ターゲットは管理部門のトップにいた2メートルぐらいの大男。そいつを「レシート見せてみい。数字が合わへんやないか」とインチキ英語と関西弁で2日も締め上げたら従順になって、ほかの社員も大人しくついてくるようになりましたね。リストラしても立ち直る見込みがないと判断して、最後は子会社を売却。売却交渉まで含めて、心身ともに本当に大変な経験でした。

私は不遇なんですよ。行く先々でホラばかり吹いてるから左遷の連続。でも同じことをやっているのが耐えられない性格だからしょうがない。ピンチのほうが血が騒ぐんですよ。

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鈴木 喬
エステー会長
一橋大学卒業後、日本生命入社。エステーに出向し、1998年社長。「消臭力」などヒットを連発。
 


大野直竹
大和ハウス工業社長
慶應義塾大学卒業。入社以来、一貫して営業畑。副社長、営業本部長などを経て現職。
 


七五三木敏幸
ポルシェジャパン社長
一橋大学卒業。群馬銀行、メルセデス・ベンツ日本、クライスラー日本などを経て現職。
 

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(ジャーナリスト 小川 剛 写真=iStock.com)

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