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反対だらけの銀行内で"ぶれなかった"信念

プレジデントオンライン / 2018年10月20日 10時45分

SMBC日興証券 会長 久保哲也

■「物事に全戦全勝などはない」

1996年の前半だったか、住友銀行(現・三井住友銀行)の証券企画部次長になって、1年くらいのころだ。ロンドン、ジュネーブ、ニューヨーク、シカゴと、2週間かけてヘッジファンドを十数社、訪ねた。同行したのは、銀行全体の経営戦略を考える企画部の次長ら2人。1千億円規模の資金運用を任せ、「安定的に稼ぐ」という趣旨に沿ったヘッジファンドを、みつけるためだった。

バブルの崩壊後、想定以上に不良債権が膨らんでいた。株価が下落し、保有株の価値が下がり、いざというときに売却益を出す「コメびつ」のコメも、細っていた。企画担当専務から「何か新しい収益源をみつけろ」と檄が飛ぶ。それを受け、企画部次長がヘッジファンドの活用を考えると、彼の上司が調査や立案に指名したのが、初めての証券業務についてまもない自分だ。四十二歳。いまも「あれくらい真面目に出張して記録した例はない」と思うほど、「目的に真っ直ぐ進む」を貫いた。

3年前まで7年近く、ロンドン支店で勤務した。でも、不動産融資の担当で、証券業務の経験はない。なのに、なぜ、1千億円もの資金を海外に投じる新規業務の先導役に選ばれたのか。ロンドンで際どい話をいくつもさばき、腹が据わった点に目を付けたのか、1つの道を真っ直ぐに進む姿勢が認められたのか、わからない。

ヘッジファンドとの面談は、米国の投資銀行が設定してくれた。会うと、多種多様な投資理論や投資観があり、どこの話も面白い。当時の日本には、そうしたプロ集団は、まだいない。帰国し、調べた内容をまとめ、銀行内を説得する提案書をつくる。候補にしたヘッジファンドは、トップの人となりで決めた。損得が大きくなる手法ではなく、いくつか専門的なヘッジファンドに分散投資をする「Fund of Funds」として、安定的に利益を確保する。その約束をぶれずに続けてくれると判断し、シカゴに本拠を置くGCMグロブナーを選ぶ。ヘッジファンドが日本から多額を預かるのは初めてだ、と聞いた。

予想通り、「そんなものを銀行がやってはいけない」との声が、行内で噴き出す。でも、闇雲に突っ走るわけではない。よく調べ、よく考えた。「物事に全戦全勝などはない」ということも、誰よりも知っている、と自負もある。説得は大変だったが、担当専務や関係部長らの推進力で、実現した。

業務純益と呼ぶ本業の利益が1千億円を切ろうとするなか、1千億円の元手で200億円くらいの利益を上げたい。そんなイメージで、97年度に500億円の投資から始めた。すると、1年目から100億円規模のプラスとなる。翌年夏、投資の実行部隊としてキャピタルマーケット部をつくり、部長に就いた。当時、もう1つ進めていたのが、「住友銀行の証券業務をどうすべきか」の戦略策定で、キャピタルマーケット部でその答えを実施するはずでもあった。だが、友好関係にあった大和証券が経営難に遭遇し、連携の交渉役が飛び込んでくる。

ヘッジファンドへの投資に、集中できなくなった。でも、グロブナーの姿勢に揺らぎはなく、投資はプラスが続く。いまも三井住友銀行は運用を託し、同社の運用規模は約5兆円と数十倍になった。そして「全戦全勝はない」との原点を、ずっと、共有している。

「聖人執一以靜」(聖人は一を執りて以て靜かなり)――誰もが師と仰ぐような人なら、1つの主義や信念を守り、やたらに表に出さず、静かな態度をとっているべきだ、との意味だ。中国の古典『韓非子』にある言葉で、ヘッジファンドの選定でも、反対だらけの銀行内の説得でも、「安定的に利益を上げる」との原点からぶれなかった久保流は、この教えと重なる。

■ロンドンで学んだ「証券化」の勘所

1953年9月、鹿児島県加世田市(現・南さつま市)に生まれる。実家は農家で、両親と兄、祖父母の6人家族。父は終戦まで海軍で長崎や佐世保にいたが、戦後は神戸の製鉄工場で働き、年に1度しか帰郷しない。田畑は、祖父母と母が手がけていた。

県立加世田高校から京都大学法学部へ進み、ユースホステル部に入って北アルプスや霧島連山などを踏破。就職は、曲がったことが嫌いで、勧善懲悪の考えが強く、検事を目指す。だが、自信があった司法試験に失敗。翌年に受け直そうと思ったが、父が病に倒れて迷う。試験に受かっていた国家公務員になる道もあったが、何げなく受けた住友銀行の試験で面接した課長にひかれ、答えを出す。

76年4月に入社し、大阪市の本店営業部の預金係へ配属された。仕事は単純で物足りなかったが、指導官だった先輩が国際部門出身で、格好よく、国際畑を進みたいとの思いが強まっていく。希望は4年目に実現し、東京・大手町にあった国際企画部へ異動した。ところが、海外情報のまとめ役で、やはり物足りない。さらに経済企画庁(現・内閣府)へ出向し、2年間、また海外調査が続く。「人事とは、自分が思うようには進まないものだ」と、覚悟を決めた。

すると、局面が大きく転じた。出向から戻ると、米ハーバード大への留学に選ばれ、帰国してお礼奉公が済むと、ロンドン支店への辞令が出る。着任すると、支店長が「新しい不動産融資をやれ」と命じた。聞くと、日本のような不動産担保の単純なものではなく、オフィスビルなどの開発に資金を出し、入居した企業などからの家賃収入で返済してもらう、一種のプロジェクトファイナンス。さらに、そのローン債権を銀行などに売り、利益を確定する。証券化ビジネスのはしりとも、言えた。

不動産融資のチームは数人で、自分以外は英国人。報告する課長も英国人で、お客も英国人。苦労はしたが、英語の力が磨かれていく。四十代を迎えるまで7年、集合住宅もショッピングセンターも手がけた。いまもロンドンを歩けば、融資した建物は「これをやった」とわかり、住所も思い出す。

失敗も多い。融資前に入居者は集まるか、家賃は想定した水準で推移するか、様々な角度からリスクをはじく。ただ、立地条件がよくても、景気の波次第で空室も出る。そうなればローン債権も値下がりし、売れない。500億円規模のテムズ川下流の再開発で、入居企業が埋まらずに傷を負った例もある。でも、リスクの多い世界と付き合い続け、腹が据わった。証券業務と向き合う下地と「執一以靜」の心構えも、身に付いた。

帰国して国内支店の副支店長を務め、冒頭の証券企画部次長になる。ヘッジファンドの選定、証券業務の戦略策定、大和証券との連携交渉という大役を3つこなし、香港支店長へ転じた。さらに国際部門の責任役員、ニューヨーク駐在の米州本部長と国際畑が続き、新人時代の夢が実現していく。

2013年4月、三井住友銀行グループになっていたSMBC日興証券の社長に就任。重点施策に、個人客などへの営業部門へ積極的に投資し、顧客基盤を拡大する方針を掲げる。公約通り、翌年2月の銀座支店と梅田支店を皮切りに、1年間で12の営業拠点を増やす。社長の座は3年で譲ったが、会長としてもリスクを取っていく。無論、「執一以靜」は不動だ。

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SMBC日興証券 会長 久保哲也(くぼ・てつや)
1953年、鹿児島県生まれ。76年京都大学法学部卒業後、住友銀行(現・三井住友銀行)入行。98年キャピタルマーケット部長、2011年、SMBC日興証券取締役、三井住友銀行副頭取、三井住友フィナンシャルグループ取締役、13年SMBC日興証券社長。16年4月より現職。

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(SMBC日興証券 会長 久保 哲也 書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)

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