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爆笑太田が怒り続ける「週刊新潮」の迷走

プレジデントオンライン / 2018年10月16日 9時15分

2015年4月18日、「桜を見る会」で安倍晋三首相とともに記念撮影する招待客の爆笑問題(写真=時事通信フォト)

■週刊新潮が報じた「日大芸術学部に裏口入学」の顛末

爆笑問題の太田光が、「週刊新潮」(8/31号)で、「太田は割り算もできずに、父親が困って日大芸術学部に裏口入学させた過去があった」と報じられ、激怒した。

自分が出ている番組で、「週刊新潮、バカヤロー、この野郎。裏口入学するわけねーだろう」と吠えまくっていたというのは、以前、ここで紹介した。

太田には失礼だが、大いに笑える記事だった。

記事が出た後の太田の怒髪天を突くような怒りもわかるが、芸人ならば、「バカ、この野郎」と口汚く罵るのではなく、もう少し芸のある怒り方をしてほしかったと思うのは、私ばかりではない。

作家の佐藤優もこういっていた。

「今回の猛反論ではユーモアのセンスが欠けてしまっていました。(中略)太田さんは毒舌で有名で、政治の話題にも分け入って揶揄してきた。それなのに、自分が裏口入学と報道されるとエキセントリックに反論し、それが図らずも太田さんの入学歴へのこだわりを露呈させ、何とも言えず寂しい思いになりました」

■3300万円の名誉毀損を求めて、新潮社を訴える

太田の、この記事への怒りはなかなか収まらず、この内容を紹介した私にも、矛先が向いていると聞いたので、探してみた。すると、ラジオ番組の内容を書き起こしているというサイトで、3本の記事をみつけた。

<爆笑問題・太田、「裏口入学」騒動についてプレジデントに寄稿した元フライデー編集長・元木昌彦に激怒「何様のつもりなんだ、お前」>2018年8月29日
<爆笑問題・太田、「裏口入学」記事をプレジデントに寄稿した元木昌彦に「反論ねぇのか、言論人としてどうなんだ」と挑発>2018年9月5日
<爆笑問題・太田、「裏口入学」騒動について記事を書いた元フライデー編集長・元木昌彦が反論しないことに「お前、ジャーナリストとして終わり」>2018年9月12日

いずれも前日に放送されたラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ、毎週火曜25時~27時)の内容を書き起こしたものらしい。3週続けてお前呼ばわりされていたようだ。放送を聞いていないので、何に対しての「反論」なのかピンとこないが、プレジデントオンライン宛に手紙でもくれれば、期待に応えて反論しようとは思っている。

週刊新潮が出てから、太田の妻も「法的措置を辞さない」といっていたが、告訴したようである。

スポーツ報知によると、「太田側の弁護士は3300万円のうち名誉毀損での賠償額が約1000万円であることを明かし『普通は500万円だが、太田さん、(妻で社長の)光代さんの気持ちが大きく、その分を入れた』と説明した。さらに中づり広告に爆笑問題の写真を掲載したことは、名前や写真から生じた利益を独占できる『パブリシティー権』の侵害に当たるとして、約2000万円の損害が生じたと主張した」そうである。

妻の名誉は毀損していないのに、500万円上乗せするとは不可解だが、名誉毀損は事実でも成立するから、週刊新潮にとってはきつい裁判になりそうだ。

■「新潮45」の休刊など、迷走続ける「新潮ジャーナリズム」

私は、この内容を紹介した際にもこう書いた。

『新潮』の記事は30年以上前のこととは思えないほどディテールがしっかり書き込んである。だが、私も、なぜこのような記事が今頃出てきたのか疑問に思う。東京医科大の裏口入学が問題になっているからと、突然思いついたわけではあるまい。
(中略)
私が聞くところによると、『新潮』は、日大のアメフト傷害事件を取材する中で、この話が日大関係者から出てきたそうだ。
興味を持った『新潮』編集長は、その頃の当事者から話を聞けと指示し、詳細を聞けたことから掲載に踏み切ったということのようである。
何せ、30年以上も前の話だから、証言以外に物証はほとんどないのではないだろうか。
そのせいか、8月22日に発売された『新潮』(8/30号)は「笑い飛ばせばそれで良かった『爆笑問題 太田光』の日大問題」と、新たな裏付けは示さず、リードでこう書いた。
「本誌が報じた爆笑問題・太田光(53)の日大芸術学部への裏口入学事情。えらい剣幕で報道を否定する場面が生出演のラジオやテレビで繰り返された。世間を斜めに斬り笑いにしてきた人物が『そんなに恥ずかしいこと?』と笑い飛ばせなかったところに違和感が募るのだ」
裏口入学事情? 裏口入学したと断定していたではないか。笑い飛ばせ? それはないだろう。親父が暴力団に近い人物を使って裏口入学させたというのでは、この記事の中でも野末陳平がいっているように、「ふざけんなよ。芸人なんだからなんて枠はない。芸人である前に人なんだ」。
これを読む限り、どうやらこの勝負、太田光の威光に逆らった『新潮』にやや分が悪そうではある。
(プレジデントオンライン<爆笑できない太田光の「裏口入学問題」>2018年8月26日)

10月9日に口頭弁論が開かれ、太田の代理人の松隈貴史弁護士は取材陣に対して、「大学も裏口入学の事実は把握していないといっている」と話し、週刊新潮側は請求棄却を求めたそうだ。

この件といい、杉田水脈の「LGBT差別論文」を掲載したうえ、批判が巻き起こると、杉田よりもお粗末な書き手の反論を掲載して、月刊誌「新潮45」が休刊に追い込まれた件など、このところ「新潮ジャーナリズム」は迷走を続けているように思える。

■迷走は「赤報隊事件」の大誤報から始まった

そのきっかけを私は、週刊新潮(2009年2月5日号・1月29日発売)が4週にわたって連載した「実名告白手記 私は朝日新聞阪神支局を襲撃した!」の大誤報から始まっていると考える。

朝日新聞支局を襲って2人の記者を殺傷した「言論テロ」は、今でも朝日の記者だけでなく、メディアに携わる人間たちの心に深い影を落としている。

事件後、赤報隊と名乗った卑劣な犯人は、警察や朝日新聞記者たちの懸命な追跡にも捕まらず、2003年に全事件の公訴時効が成立してしまったのである。時効後、その事件の実行犯だと名乗る収監中の元暴力団員の男が、いくつもの報道機関に手紙を送りつけた。朝日新聞の記者もそれを手に入れ、男に何度か会いに行ったが、犯人ではないと断定していた。

だが、当時の早川清編集長は、編集部のごく一部の人間と件の男に接触し、何を血迷ったか、掲載を決めてしまったのだ。編集部員の多くは、見本刷りが出て初めて読んだと聞いている。

私もさっそく読んでみた。私が連載していた週刊誌批評に、「連載を読む限り、『新潮』がどれだけ裏付けをとったのか見えない」「出ている材料は状況証拠ともいえないものばかり」だと批判した。

■編集長は「誤報」と認めるが、取締役には残ったまま

朝日はこの記事を検証した批判記事を掲載したが、それに対する週刊新潮の反論も、「朝日の言葉の揚げ足とりに終始している」と断じた。

結局、連載後に、早川編集長は「誤報」だと認めるのだが、読者に対して十分な説明責任を果たさずに編集長を降りてしまう。取締役には残ったままだった。聞くところによると、編集部にも何ら説明はなかったという。

週刊誌ジャーナリズムの信頼が大きく揺らいでいる。危機感を持った私は、上智大学で「週刊誌が死んでもいいのか」というシンポジウムを開催した。

各誌の前・元編集長や田原総一朗、佐野眞一などに来てもらって、長丁場のシンポだったが、大盛況で中に入れない何百人もの人たちは、会場の外で耳をそばだてていた。

■「新潮社の天皇」として君臨した齋藤十一の哲学

だいぶ前になる。北鎌倉・明月院の紫陽花が咲いていた頃だったと記憶している。

明月院の門前を通り、坂道を登り切ったところにその家はあった。主はすでに亡くなっていたが、未亡人が優しく出迎えてくれた。通された応接間から見えるのは真っ青な空と鬱蒼とした森ばかり。さっき通ってきた明月院の紫陽花が見え隠れしていた。

よくここで夫とクラシックのレコードを聴いたといいながら、日本に一台しかないといわれるオーディオの名器・デッカ(英国デッカ社製のデコラ)で、モーツアルトのレクイエムか何かを聴かせてくれた。

ジャズは多少わかるがクラシックにはとんと縁がない私には、心地よい音楽としかいいようがないが、こうした穏やかな雰囲気の中で、この部屋の主は、「週刊新潮」や「FOCUS」のエグいタイトルを生み出したのである。

主の名は齋藤十一。1939年に新潮社に入社以来、1996年に相談役を退くまで新潮社の天皇として君臨した。文芸雑誌・新潮編集長のとき、こういっている。「本誌は文学雑誌であるが、あらゆる角度から今日の社会現象をも文学的に扱いたい」。吉村昭、柴田錬三郎、山口瞳、山崎豊子、瀬戸内寂聴など、挙げればきりがないほどの作家を発掘した。

だが、潰した作家もそれに倍するぐらいいただろうと、『編集者・齋藤十一』(齋藤美和編、冬花社)で佐野眞一が書いている。

■「新聞社と同じでは勝てない。切り口とタイトルが命だ」

小林秀雄は齋藤のことを「齋藤さんは天才だ。自分の思ったことをとことん通してしまう。キミ、それこそ天才じゃないか」といったという。芸術新潮を創刊したのも齋藤である。

その齋藤が、出版社が初めて出す週刊誌に関わったのは1950年代半ば。56年2月に週刊新潮が発売され、編集長は佐藤亮一(後の社長)だったが、実質的に企画から編集現場を取り仕切ったのは齋藤であった。

当時は、週刊朝日が100万部を誇り、他の新聞社系の週刊誌もそれなりの部数を出していた。そこに、人も情報も少ない出版社が殴り込みをかけたのである。

新聞社系と同じことをやっていては勝てない。切り口とタイトルが命だ。それをよく表す記事がある。

1958年夏に全日空機が下田沖に墜落する。週刊新潮の編集部員は必死で乗客名簿を探す新聞を尻目に、その便をキャンセルした乗客を探せと齋藤に命じられる。タイトルは「私は死神から逃れた 七時三十五分をめぐる運命の人々」

■人間の本質的な欲望「金と女と権力」を扱えばいい

パリで女友だちを殺して肉を喰った佐川一政容疑者が、心神喪失を理由に日本へ強制送還されたとき、齋藤が付けたタイトルは「気をつけろ『佐川君』が歩いている」。他にも挙げてみよう。

「『知る権利』より『知る興味』」「日本を左右する大『朝日新聞』を左右する人々」「『縮刷版』よ消えてくれ 日本の新聞が『文化大革命』を囃したころ」「神戸男児惨殺容疑者『少年写真』騒動 人権大合唱で圧殺されたこれだけの『民衆の声』」

これらが、あの静謐な部屋から次々に生み出された。私には到底できない。

齋藤は新潮ジャーナリズム、出版社ジャーナリズムをつくりあげたのである。

自らを「俗物」、「女が好きだ」と公言して憚らなかった。週刊誌が読まれるためには、人間のもっている本質的な欲望「金と女と権力」を扱えばいいと喝破する。

これは齋藤が文芸雑誌で追求し続けた主要テーマでもあった。齋藤は「僕は週刊新潮で文学をやる」と常々いっていたようだが、彼にとって文芸雑誌も週刊誌も同じ土俵だったのであろう。

■「売れる本じゃないんだ、買わせる本をつくるんだ」

週刊新潮の成功に、文藝春秋や講談社も名乗りを上げ、「週刊文春」や「週刊現代」が創刊される。週刊現代は読者をサラリーマンに定め、彼らが好きなものは「色、カネ、出世」だとして部数を伸ばしていく。こうして新聞社系を出版社系が凌駕し、週刊誌新時代を築きあげていった。

齋藤は、佐野のインタビューにこう答えている。

「人間は誰でもひと皮むけば、金と女と名誉が大好きな俗物です。僕も狂的な俗物です。実際にはもうダメだけど、いまでも女は大好きです。食い意地もきたない。『週刊新潮』ではそれをやりたかったし、いまでもやりたい」

日本に一つしかない名器でグレン・グールドのトルコ行進曲を聴きながらも、人間の心の奥底ではどす黒い欲望が渦巻いている。お前が欲しているのはこういうことだろうと、取りだして見せてやればいい。

齋藤語録をいくつか。

「食べることに関心を持たない人は、良い編集者になれない」「面白い雑誌をつくるには面白い人間になれ」「自分の読みたいものをつくれ」「売れる本じゃないんだ、買わせる本をつくるんだ」「タイトルがすべてだ」「人間は生まれながらに死刑囚」

■「おまえら、人殺しのツラが見たくないのか」

そしてこうもいっている。「編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ」。

写真週刊誌「FOCUS」を創刊したのも齋藤である。アメリカの「TIME」のような雑誌をつくろうとしたようだが、齋藤が殺人犯の顔写真を載せることにためらっている編集部員に向かっていったのは、「おまえら、人殺しのツラが見たくないのか」であった。

その後、同誌をそっくり真似た「FRIDAY(フライデー)」が創刊され、FF時代を築くのだが、齋藤は誌面に不満だったようだ。部数が低迷し始めたころ、担当の役員にこういったそうだ。

「週刊新潮はアタマを使わなきゃつくれないが、FOCUSはバカでもつくれるんだよ。それができない、どうなってんだ」(松田宏「齋藤さんの思い出」より)

創刊3年近く経っても売れ行きが芳しくなかった「新潮45+」を見かね、齋藤が紙面刷新に乗り出した。佐野によると、そのときスタッフを集めて雑誌についてこう語ったという。

「雑誌というものの根本は、なにもいまさら講釈するつもりはないが、他人のことを考えていては出来ない。いつも自分のことを考える。俺は何が欲しいか、読みたいか、何がやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要はない」

■共産党を激烈批判しながら、副委員長の手記を掲載

雑誌名も「新潮45」とし、リニューアルの軸に据えたのは日記と伝記だったが、残念ながらうまくいかず、編集長が替わるたびに内容も変わり、今回の“事件”で、ついに休刊してしまった。

60年を超える週刊新潮には数々のスクープがあるが、私の中で一番思い出に残っているのは、1975年の新年合併号に掲載された袴田里見共産党副委員長が宮本顕治委員長を批判した「独占手記」である。

同誌は創刊以来、共産党を激烈に批判してきた雑誌である。そこに現役の副委員長が宮本を批判した手記を寄稿したのだから、大新聞を含めて大騒ぎになった。私も駆り出され、暮れから新年にかけて袴田の自宅へ日参したが、本人に会うことさえできなかった。

ほかにも、外務省機密漏洩事件の蓮見喜久子元外務省事務官の告白や、皇太子(現・今上天皇)のインタビューまでやってのけている。

■新聞やテレビにはできないことをやる

古参の週刊新潮編集部員から聞いた話だ。地方へ出張に行くとき、当時は1等・2等・3等と別れていたが、必ず1等に乗れと厳命されたという。そこには一流会社の社長や文化人が乗っているから、向こうへ着くまでに名刺を渡して親しくなれというのである。

私も事件取材で地方へよく行ったが、週刊新潮はハイヤーをチャーターして警察を回るが、こちらはタクシーを乗り継ぐから、取材が後手後手になる。警察署の対応も、新潮と現代とでは差があり、向こうは署長が出て来るが、こちらは副署長か、その下だった。

齋藤という頭脳が奥の院にいて、編集者や記者たちをカネをかけて育て、新聞やテレビにはできないことをやる。これが新潮ジャーナリズムの伝統だったと思う。

他の出版社の週刊誌も、試行錯誤しながら競い合い週刊誌ジャーナリズムを築き上げてきたのである。

やや保守色の強い新潮社、文藝春秋、リベラルというより主義主張のない講談社、小学館などが切磋琢磨し合い、新聞やテレビとは一味もふた味も違う言論の場を形づくってきた。

■「ワイドショーの下請けのようになっている」

『週刊新潮が報じたスキャンダル戦後史 週刊新潮編集部編』(新潮文庫)のあとがきで、松田宏元編集長が、新潮ジャーナリズムについてこう書いている。

「私たちは、大げさでなく『命がけ』で取材をした。新潮ジャーナリズムと呼ばれた一連の記事も、そうした日々の中から生まれていったと自負している。奇っ怪な宗教団体・創価学会を追及し、いい加減な共産党のバケの皮を剥がした。(中略)もちろん、それ以外にも、永田町や経済界、芸能界から夜の銀座のネオン街に至るまで、人間の悲喜劇はいくらでも転がっていた。信じられないほど悪いやつも、おかしな人物もたくさんいた」

だが、ここ20年で週刊誌を含めた雑誌界は様変わりしてしまった。部数は低迷し、上からは「赤字を減らせ」「部数を上げろ」と矢の催促。編集現場は委縮し、ジャーナリズムなど打ち捨てて、死ぬまでセックスと声高に叫び、丸ごと一冊老人・健康雑誌に路線変更する週刊誌、不倫愛だ略奪愛だと、他人の身の下ばかりを追いかけ、ワイドショーの下請けのようになっていると批判される週刊誌ばかりになってきている。

この現状を齋藤が見たらこういうに違いない。「いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ」。老舗の新潮ジャーナリズムが大きく揺らいでいる今こそ、編集に携わっている人間みんなで、雑誌のレーゾンデートルとは何かを、もう一度真剣に考えてみる必要があると、私は思う。(文中敬称略)

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦 写真=時事通信フォト)

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