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保守派が好きな"本来の日本"という謎概念

プレジデントオンライン / 2018年12月20日 9時15分

画/ぼうごなつこ

拉致問題を担当したことで、保守派からの人気を集めた中山恭子氏に、厳しい視線が注がれている。日本のこころから離党した昨年9月に、同党支部の政党交付金約2億円を自らの政治資金団体に移していたことが明らかになったのだ。中山氏に対し、かねてから疑問を呈してきた文筆家・古谷経衡氏は「『本来の日本を取り戻したい』と言うが、『本来の日本』が何処に存在するものか、よく分からない」と指摘する――。

※本稿は、古谷経衡『女政治家の通信簿』(小学館新書)の一部を再編集したものです。

■硬直した「マトリックス史観」の持ち主

中山恭子 元拉致問題担当大臣
1940年生まれ。東京都出身。夫は文部科学大臣などを務めた中山成彬。東京大学文学部卒業後、大蔵省入省。退官後、在ウズベキスタン特命全権大使、内閣官房参与、首相補佐官を経て、2007年参院選にて当選(自民党・比例)。その後、日本維新の会、次世代の党などを経て、現在は希望の党顧問。

中山からはマトリックス史観を強く感じる。マトリックス史観とは、「現実の世界や現実の社会、現実の日本というのは嘘の存在である。この世界は、『左翼勢力』『反日勢力』に遮蔽されているだけで、私達の知らない本当の日本というものがあり、それに目覚め、あるいはそういった『真の日本』を認識して、それを取り戻さなければならない──」というものだ。

中山の著書『国想い 夢紡ぎ』(万葉舎、2011年)には、中山の硬直したマトリックス史観を随所にうかがう事ができる。

 
〈平和の維持、自由主義の堅持を基本として、今なすべき事は、戦後シンドロームからの脱却です。(中略)ウズベキスタン共和国のカリモフ大統領が、「日本は戦後シンドロームから抜け出して世界に大きく貢献するときに来ている(後略)」と発言されました(注*中山は小泉政権時代、ウズベキスタン大使だった)。それまでにも、戦後シンドロームと言う言葉は幾度も聞いていましたが、このとき「本来の日本を取り戻したい。取り戻さなければ」と強く心に刻みました〉

■「戦後シンドロームからの脱却」を教育に求める

戦後シンドロームとは、直訳すれば戦後症候群となる。私は戦後シンドロームという言葉をあまり聞いたことは無いが、中山は「戦後シンドロームからの脱却」を、とりわけ教育問題に絞る。日本教職員組合を戦後ソ連のコミンテルンの支持を受けて勢力を拡大した組織、と定義した上で、

〈日教組による反日、自虐教育が終戦直後から現在まで長期に亘って行われているという極めて憂慮すべき事態が、現に目の前にあることを認識しなければなりません。現在の教育問題はここに原点を発し、日本を蝕んで来ました。子供達の将来を考えると、心が震えるほど心配になります〉

としている。このような教育というのは、「日教組による反日的自虐教育」「ゆとり教育」「日本語教育の不備」と指摘している。この日教組に対する不信は、中山の夫・中山成彬にも共通の世界観であり、中山夫妻共通の思想である。

かくいう私も、義務教育において、中山の言う「自虐教育」ともいうべきカリキュラムに親しんできた。私の地元は北海道教職員組合の組織率が強く、伝統的に社会党のイデオロギーが強い地域であった。

■「自虐教育」を受けても憂慮される人生にはなっていない

しかし、果たして私自身がそうであったように、仮にこの教育方針を自虐教育とするならば、私はそれに従順だったのかと言えば、結果として真反対の人間になった。

憲法九条についてはその二項を削除・修正して国防軍を創設する。対外関係にあっては対米自立を指向し、強力な自主防衛を貫徹し、その達成のためには核武装も辞さず、当然防衛予算を増強する。先の戦争についての評価は、満州事変以降の日本の大陸侵略は間違った国策だったが、日米戦争にあっては自衛戦争の側面を認め、むしろ石原莞爾のような洋の東西の文明衝突的価値観から捉える云々──。

こうして私の現在の思想を振り返ってみると、中山の言う「自虐教育」の最前衛とも呼べる地域で六・三・三の十二年の教育を終えたが、「本当に幸せな、豊かな人生を送れるとは到底考えられません」(前掲書)と憂慮されるような人生に至っているという自覚は無い。

私は、個性とは学校教育の外部から発生するものであり、学校教育は後年の人格を規定せず、むしろ学校教育での強制は学童に真反対の効果を与える、と思っている。

学校教育で強制される「上からの規格」は、往々にして反発を生み、そこから逸脱する存在を大量に生む。人間とはそういうものだと私は思っているし、事実そういう事例を山ほど見てきたが、どうも中山の人間観、子供観と言うものはそうではなく、「上から教わったものをそのまま受容する」極めて規格的な人間が、一切抵抗することなくそのまま後年の人格を形成すると想っているようだ。

私はこの感覚がよく分からない。みんな、そんなに少年期に教わったとされる学校教育の内容に従順なのだろうか。私は中学校の社会科教師があの戦争について何を言ったのか、全く覚えていないが、成人してから読んだ「真っ当」な歴史研究者の本の内容の方に圧倒的に強い影響を受けている。

■「本来の日本」はどこに存在するのか

戦後シンドロームの存在を前提として、「本来の日本を取り戻したい。取り戻さなければ」と決意するのは結構だが、「本来の日本」とは何処に存在するものかは、中山の世界観からはよく分からない。うっすらとそれが戦前の一時期にあるようであるのは、中山の著書の中から類推されるが、中山は1940年生まれで終戦当時5歳。中山自身が言うように、中山自体が「コミンテルンによる自虐教育」を受けてきた世代であるはずだ。中山の言う「本来の日本」が仮に戦前にあるとして、中山自身はそれを体験していない。

もしかしてその「本来の日本」とは、「乳と蜜あふれる約束の地」(旧約聖書)のように、これまでの日本人が一度も手に入れた事の無い理想郷であるならば、それはやはりマトリックス史観の一種で、SFの領域であると言わなければならない。

■「中山恭子=拉致問題」で保守派の人気を得た

さて、中山恭子と言えば、第一次安倍内閣で拉致問題対策本部・事務局長に就任し、続く福田康夫内閣で拉致問題担当、麻生内閣で内閣総理大臣補佐官としてやはり拉致問題を担当した。小泉以降の自民党三政権(2006~09年)で、中山恭子=拉致問題というイメージは補強され、保守派からの人気は極めて高いものになった。

その人気は中山の得票数に表れている。初当選した2007年の参院選全国比例では38万6000票の個人票を獲得して自民党三位(このとき一位は舛添要一)。この後、自民党が下野したため、中山は自民党から離党して日本維新の会に移った。ちなみに自民党代議士として文科大臣・国土交通大臣を務めた夫の中山成彬が地元の自民党宮崎県連との係争で同党からの衆議院出馬がご破算になったあげく、自民党から除名されたために、中山恭子は常に夫と共に行動を取るようになる。中山成彬も恭子と同時に、たちあがれ日本→日本維新の会へ党籍を変更している。

そんな中、中山恭子にとって転機だったのは、日本維新の会から石原慎太郎率いる次世代の党が分裂したことだ。

日本維新の会が江田憲司率いる中道の「結いの党」と合併したことに立腹したため、一気に石原一派が分党して「次世代の党」を作った。「自民党より右」を高らかに掲げた次世代の党へ、ネット世論、保守層・右派は狂喜乱舞した。当然、中山恭子と成彬も次世代の党についていった。時に2014年8月1日のことであった。

■「自民党より右」は一般の有権者から遠かった

ところが次世代の党結成からわずか4カ月後に行われた2014年の解散総選挙で、解散前勢力19議席を誇った次世代の党はわずか2議席と壊滅的打撃を被った。保守派・右派とネット右翼は、雑誌で、SNSで、遊説でと、次世代の党を応援しまくったが全く効果が無かった。いかに「自民党より右」という極端な同党の立場が、一般の有権者の皮膚感覚から乖離していたかの証左である。

このとき、日本維新の会で衆議院議員となって、次世代の党に移って落選した代議士たちは長い長い冬の時代を迎えることになった。が、中山恭子には関係が無かった。なぜなら中山恭子は参議院議員だったからである。2014年の衆議院選挙における次世代の党の壊滅は、落選議員の自民党復党と、次世代の党の党勢衰微にますます拍車をかけた。この選挙で、小選挙区で当選した平沼赳夫と園田博之は二人そろって、2015年10月に自民党に復党した。

こうなると次世代の党は衆議院に議席を失い、参議院だけの小政党となった。このとき次世代の党は松沢成文、和田政宗、江口克彦、浜田和幸、中野正志、そして中山恭子の、いずれも全員参議院議員だけの6名の政党になった。この中で最も知名度があるのは中山恭子であり、中山が推される形で次世代の党の党首になった。

■親安倍から反安倍に一転

中山体制下にて、次世代の党は「日本のこころを大切にする党」への党名変更を行った。略称は「こころ」だったが、同党を揶揄する一部のネットスラングでは「日コロ」などと言う別称も出た(その後、「日本のこころ」へ再度改名)。いずれにせよこの時点でいずれ行われるであろう衆議院選挙での党勢回復は全く望めないのだった。危機感を覚えた幹事長代理の和田政宗は、離党して自民党に入党した。いよいよ「こころ」の立場は危うくなった。

古谷経衡『女政治家の通信簿』(小学館新書)

2017年9月。週刊誌、テレビ、SNS、全国を熱狂させている「小池劇場」の進展を眺めていた中山恭子は、同党を離党し小池率いる「希望の党」に夫の中山成彬とともに入党した。

これは中山恭子にとって重大な政策転換であった。「希望の党」入党に際し、それまで「森友学園・加計学園」(モリカケ)問題について、安倍総理に全く瑕疵は無い、と政権擁護を繰り返していた夫妻が、一転して「モリカケは問題だ」として反安倍・反自民への立場に180度転換したのである。

小池にとって旧次世代の党の領袖を自らに加えることは、「希望の党が保守層へとウイングを広げること」との野心があったとされるが、逆に保守層は中山夫妻への反発を深めた。「モリカケ問題なし」から「モリカケ問題あり」と親安倍から反安倍に転向したことは、「モリカケ問題は朝日新聞の捏造」とまで糾弾の度を強める保守派にとっては許しがたい裏切り行為と映ったのである。

■小早川秀秋の裏切りに似ている

中山恭子は参議院議員なので2017年衆院選は関係が無い。しかし長らく下野が続き自民党からも除名され、冬の時代を生きてきた夫・中山成彬を第一におもんぱかっての「希望の党」入党であろう。事実中山成彬は「希望の党」から公認をもらって同選挙の比例九州ブロックで当選し、代議士に復帰した。

ところが総選挙後、「希望の党」が立憲民主党に及ばない野党第二党の結果に終わると、中山恭子、成彬夫妻は、同じく旧次世代の党から「希望の党」に入党してきた松沢成文らと合議して、再度「希望の党」からの分党を計画していることが報道された。拉致問題に熱心な愛国政治家として自民党下野時代に盛んに保守系論壇誌に登場していた中山恭子、成彬夫妻に対して保守層は急速に冷淡な態度を示している。

常に夫と行動する中山恭子の姿勢は、よく言えば「古き良き日本女性」による内助の功というやつかもしれないが、一度でも安倍に敵対する小池にすり寄った、という事実を裏切りと考える保守派に、再度の中山人気は起こらないであろう。

元々態度が違う正反対の人よりも、一旦身内と認識したものに裏切られたと感じたときの憎悪は激しい。大谷吉継が小早川秀秋の裏切りに「三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害した故事に似ている。やはり真の敵は遠くの敵よりも近くの元味方なのである。(文中敬称略)

(文筆家 古谷 経衡)

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