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一発屋で終わった「たけしの師匠」の素顔

プレジデントオンライン / 2018年12月19日 9時15分

松鶴家千とせ(しょかくや・ちとせ)氏。

芸人とは一見華やかな世界の住人に見える。しかし、光が当たるのはごく一部であり、それ以外の大多数は闇の中に蠢いているものだ。しかも爆発的に売れたとしても、笑いは瞬時に消費される。そこから生き残る芸人はわずか。田崎健太氏の著書『全身芸人』(太田出版)より、「ビートたけし」の師匠で、かつて大ブレイクした芸人・松鶴家千とせのエピソードを紹介しよう――。

■「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」

1970年代半ば、松鶴家千とせ(しょかくや・ちとせ)は文字通り、一世を風靡した芸人だった。

〈俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった。父さんは胸焼けで、母さんはシモヤケだった〉

「シャバラバ♪」とリズムを取りながら、東北訛で語りかけ、最後は「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」で締める。

76年5月発売のシングルレコード『わかんねェだろうナ(夕やけこやけ)』は160万枚を超える販売記録となった。『サントリー』『日清食品』『服部セイコー』など名だたる企業のテレビコマーシャルにも起用。その数は20社を超えた。テレビ番組のレギュラーを多数抱え、睡眠時間は一日3、4時間確保するのが精一杯だった。

松鶴家千とせが、成功の糸口を掴んだきっかけは、外見を変えたことだった。

「それまで髪の毛は短く、びしっと(固めて)して漫談やってました。でも、これじゃ駄目だとアフロ(ヘア)にするようになった。黒人のコーラスとかの人がそんな頭していたでしょ、あれをやりたいなと思って」

理容師免許を持っていた千とせは自分で髪をセットすることが出来た。

「割り箸を三つに折って、髪の毛を巻いたの。パーマ掛けるときに使うロットがなかったんだよね。割り箸が一番、キュっと巻けたんです。不揃いだったけどね。それで髭を伸ばして、サングラスを掛けたら、だんだん良くなってきた」

■アフロヘア、あご髭、縦縞のスリーピース

髪の毛に合わせて、黒人のミュージシャン風の派手なスーツを身につけた。

「全然雰囲気が変わっちゃって、最初はあんた誰? みたいなもんだったよ」

アフロヘアにあご髭、縦縞のスリーピースと木訥(ぼくとつ)とした口調のミスマッチが笑いを生むことになった。その頃、彼は安来節(やすぎぶし)の常打ち小屋である浅草の木馬館を本拠地としていた。安来節の幕間で漫談をしていたのだ。

安来節は島根県安来市の民謡である。元々は鳥取県境港市のさんこ節が、近隣である安来の花柳界に伝えられて、安来節となったとされている。ドジョウすくいの踊りで知られる、花柳界の騒ぎ唄である。

「安来節ってね、赤い腰巻き巻いてお姉さんが5、6人ずつ、パッパッパッて、おしりを振って踊るんだ。エロティックなところもあったね。その後でぼくが出たら、お客さんがさーっといなくなるの。トイレアワー。ションベンしにいったり、煙草を吸いに行ったり。誰もいないところで20分近く漫談をやるわけです。そうやって出ていくお客さんを引き止めて、寝ているお客さんを起こすために、“イェーイ”ってやったんです」

千とせは両手でピースサインして、前後に大きく動かした。

「“イェーイ、わかるかな? わかんねぇだろうな”って」

■ビートたけしとの出会い、とっておきのコンビ名を授ける

「寝ているお客さんを起こすために、“イェーイ”ってやったんです」。

最初はうるさいと客から邪険にされたが、そのうち漫談を熱心に聞いてくれるようになったという。

「喉、渇いたろうって牛乳瓶を貰ったり、煙草を貰ったりするようになった」

浅草では、木馬館の千とせが面白いという話題になり、芸人たちが見に来るようになったという。

やがて評判が口コミで広がり、テレビ局から声が掛かるようになった。

彼の人気が出る少し前、二人の若い漫才師が弟子入りを希望してきたことがあった。

二人は千とせの前で手をついて弟子にしてくれと頭を下げた。かつて千とせの漫才を見たことがあると言った。千とせは漫談をする前、西秀一という名前で秀一秀二という漫才コンビを組んでいた。

「“パンチの効いたネタをやっていましたね、ぼくらもああいうのをやりたいです”って言うんです。ああそうかい、じゃあ、名前は『松鶴家二郎次郎』でいいかって」

この『松鶴家二郎次郎』は長く続かなかった。『空たかし・きよし』に改名。それでも人気が出なかったため、新しい名前を付けて欲しいと千とせの前に現れたという。

「松鶴家というのは嫌だって。なんでって聞いたら、NHK(の漫才コンクール)で三番か四番目の(賞)しかもらえなかった。それは松鶴家が古い名前だからって言い出すのよ。じゃあ、どんなんがいいんだって聞きました。俺が漫才をやっていたとき、テンポのいい、ビートの利いたようなのをやっていた。それでビートの利いたのをお願いしますっていうから、じゃあ『ザ・ビート』にするかって。いや、二人だからツーにしよう。ぼくが『ツービート』にしたんです」

■「ツービート」は誰のものか

ビートたけしこと北野武、そしてビートきよしこと兼子二郎による、漫才コンビである。

しかし――。

ビートたけしの著作『浅草キッド』の中にはこう書かれている。

〈「どうにも思いつかないよなぁ……どうしょうか、名前」 2人ともいい加減疲れてきた頃、ふと相方が思い出したように、こんな話をし始めた。「……いや、オイラさ、ジャズ喫茶でバイトしたことあるんだよ」「ジャズ喫茶?」「それでね、ジャズのリズムに2ビート、4ビート、16ビートっていうのがあってさ」「ふ~ん、2ビートに4ビートねえ…」 それでピンと来た。「あれ、ツービートってよくない?」「ツービート?」「ウチら2人だし、漫才はテンポだろ。ツービートっていいんじゃないの?」〉(『浅草キッド』)

ツービートとなってから、それまで二郎――ビートきよしが書いていた台本を、たけしが担当するようになった。ここからツービートの快進撃が始まったという。

たけしの師匠として頭に浮かぶのは、浅草のフランス座での修行時代に師事した深見千三郎(ふかみ・せんざぶろう)である。また「漫才では松鶴家千代若・千代菊が師匠」だと口にすることもある。

そもそもたけしは千とせの弟子なのか――。

■千とせの凋落と弟子の大ブレイク

千とせに訊ねると、「ぼくの弟子です」と強い調子で言った。

「ぼくがツービートを初めてテレビに出してあげたんだもの。山城新伍さんの番組。そのときたけしは素面じゃ出られないって、酒を飲んで2時間も遅れてきたんだよ」

千とせによると、彼の師匠である千代若が周囲に唆され、孫弟子まで自分の弟子だと言い出したことで、混乱してしまったという。

「私の弟子をみんな千代若師匠の弟子にしちゃえと言った奴がいるんです。師匠も悪い気がしないから、たけしたちを弟子にしちゃった。はっきりと書いてください。たけしは私の弟子で、ツービートは私が名前をつけたんだから」

“弟子”であったツービートは“毒舌漫才”で一気に駆け上がり、そこから落ちることはなかった。

一方、“師匠”千とせの人気は長く続かなかった。いわば最初の一発屋である。彼は人気絶頂の時期にアメリカ、ブラジル、東南アジアなどの海外公演を行っている。

芸人の人気は儚いものだ。しばらく姿を見なければ忘れられる。それにも関わらず、なぜ海外公演をこの時期に行ったのか。そう訊ねると「みんなにね、憎まれちゃった」とぽつりとこぼした。

■人気稼業を続けていくための条件

ある劇場でのことだ。

「ぼくはテレビの出番とかがあるから、やってすぐに出なきゃなんないときがあったんです。すると、前の人がわざとゆっくりと(演目を)やるんです。ポンポンってやれば、間に合うはずなのに、時間をかけるんです。そうなると、ぼくは、あ――ってなってしまう。そうなると時間がないから、もう行かなきゃ、と。それを何回もやられた」

田崎健太『全身芸人』太田出版

仲間の嫉妬を器用にやり過ごす、あるいはねじ伏せる。対処方法はあったはずだ。

「それまではへっ、みたいなもんでしたよ」

千とせは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「でもそのときは出来なかった。急に(気が)弱くなってしまったんですね」

千とせには人気稼業を続けていくのに必須のずぶとさ、したたかさがなかった。

これも芸人の光と影の現実である。

(ノンフィクション作家 田崎 健太 撮影=関根虎洸)

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