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株投資1800万を3年で3300万にした63歳

プレジデントオンライン / 2019年2月16日 11時15分

PIXTA=写真

現役時代の職業によって、定年後の経済力、生き方はどう変わるのだろうか。職業別に「リアルな老後」を紹介しよう。3人目は「国内大手メーカーOB」の立本浩太さん(仮名)の場合――。(全5回)

※本稿は、「プレジデント」(2018年11月12日号)の掲載記事を再編集したものです。

■55歳のとき、家族の人生設計をシミュレーション

就職先に総合電機メーカーを選んだのは「大学では法律を専攻し、文系の少ない会社で希少価値を生かすにはメーカーがいい、またこの先どんな業界が伸びていくかを考えたら電機だと思ったから」と立本浩太さんは語る。

仕事は華やかな印象のある広報・宣伝部門を希望したが、事業所の人事・総務部門に配属。これが立本さんの職業人生の柱となるが、同じ人事部門でも主流ではない道を歩むことになる。最初のきっかけは29歳のときの海外赴任。海外留学・研修生の社内公募に応募し、合格後、イギリスで立ち上げた子会社の家電工場の研修生として赴任した。

「トレーニーといっても従業員約1000人の会社に日本人は私を含めて10人。一番若かったので就業規則の作成や人事制度をゼロから設計、労働組合との交渉など何でもやらされました。不良品や汚い工場の環境改善、現地の従業員とのトラブル処理など大変でした。1年間の赴任でしたが、私にとっては5年に匹敵するぐらいの経験でした」

修羅場の経験を経て、帰国後は研究所や工場の総務部門を経て37歳で本社の生産技術本部の課長職に就いた。年収は900万円。本社の中枢の人事本部ではなく、エンジニア主体の技術部門やグループ企業の総務・人事全般の仕事を担当した。「パソコンを使いこなす周りのエンジニアに刺激され、教えてもらいながらワード、エクセル、パワーポイントは事務系ではいち早く覚え、PCスキルを身につけるのにも役立った」(立本さん)。

バブル崩壊後の会社の業績低迷で転機が訪れた。余剰人員対策を担当する人材開発センター長に。主な仕事は工場の人員を一時的に自動車メーカーの期間工として引き受けてもらうこと、課長・部長などの管理職層の関連会社や他の会社への移籍を促すリストラ支援の仕事だった。

「工場の何百人単位の従業員を自動車会社さんに引き受けてもらうようにお願いに行きました。また、すでに子会社で受け入れる余地がなかった管理職の転籍先を開拓するために資本系列外の会社も訪問しました。セカンドキャリア支援の仕組みをつくり、会社に引導を渡された管理職の人を説得し、移籍先の企業とのマッチングに努めました。嫌な仕事がどんどん回ってきましたが、さまざまな中小企業の経営者にお会いするなど勉強になりました」

写真=iStock.com/Jacob Ammentorp Lund

その実績を買われて45歳のときに経営構造改革推進本部の部長に昇格した。年収は1200万円。主な担当は全社的な人事・総務部門の業務革新という名の合理化だった。事業所や子会社ごとに違う出張費や日当の統一化、給与明細書のメール配信といった細かい作業から、管理部門の人員縮小などを手がけた。

「事業所ごとに労働組合があり、既得権が失われることから抵抗されました。身内の人事・総務部門からも立本があれを削ろうとしている、ふざけるなと批判が飛び出るなど、敵呼ばわりされたこともあります。嫌われ者の役回りでしたが、少しでも経営が改善すればと必死でしたし、やりがいはありました」

プライベートでは30歳で結婚し、31歳で都内にマンションを購入し、2人の子供にも恵まれた。妻も仕事を持ち、自身も出世コースに乗り、順風満帆だったが、50歳を前に退職を決意した。

「じつは次の仕事は東京以外の赴任地になるだろうと予測していました。仕事を持つ妻と2人で子育てしてきましたが、子供もまだ小学生でしたし、転勤になれば家族が離ればなれになる。悩んだ末に転職することにしました」

出世を棒に振ってまでの退職には葛藤もあっただろうが、自身の力が外部で通用するのか試してみたいという思いもあった。退職後、人事コンサルティング会社のコンサル業務に携わり、2年後に経営・人事コンサルタントとして独立した。

「会社時代に社員のセカンドキャリア支援に携わり、大企業から中小企業に転職すると、頭では理解していても想像していたこととは違うことに遭遇します。たとえ専門性を持っていたとしても、アイデアや提言するにしても大企業病に侵された上から目線の物言いは通用しないことを肝に銘じていました。それから少なくとも5年間は出身企業の息のかかった企業から仕事をもらうことはやめようと決意し、ゼロから顧問先を開拓しました」

徐々に顧問先企業も増えていく。その背景には単に人事業務にとどまらず、業務改革や経営革新など幅広い業務の経験も役立った。コンサルだけではなく企業の監査役の仕事を引き受けるなど、収入も前職よりは劣るが800万~900万円の年収を稼げるようになった。

だが、立本さんのすごいところはここからだ。55歳のときに家族を含めた今後の年齢ごとのライフイベントと自分の収入をシミュレーションし、生活を維持するために何をすべきかを考えた。退職を機に目減りする企業年金を補うために生保のドル建ての個人年金に加入していた。出費を抑えるために生命保険料を見直し、大幅に削った。

「60歳以降の収入は企業年金と個人年金で約240万円、厚生年金の報酬比例部分が支給される62歳から265万円、公的年金の満額が受け取れる65歳以降は330万円になります。しかし、生活に余裕を持たせるには今の仕事のほかに何か別の収入源が必要だと考えたのです」

それが新たな挑戦となる株式投資家の道だった。会社員時代は持ち株会と大手企業の株をいくつか持っていたものの、ほとんど貯蓄に回していた。その額は4500万円。60歳以降はそれを取り崩していくよりは“お金に働かせるべき”と考え、50代後半から本を読み、セミナーに通って投資の勉強を重ねた。

「60歳になってから老後の大事なお金を投資に使うのはリスキーだといろんな評論家は言います。確かにそうかもしれませんが、銀行預金の金利はゼロに近く、国債の金利も0.05%程度です。しかも日本人の金融資産の預貯金比率は諸外国に比べて高く、米国は18%程度。私も預金の40%に限定して投資しています」

60歳を過ぎてからコンサルタント業を3分の1に縮小し、本格的な投資に挑んだ。初年度は新入社員の年収並みの300万円のキャピタルゲインを目指したが、400万円超の収入があった。2年目は係長クラスの収入500万円を達成した。3年目の2018年は課長クラスの600万円を目指しているが、すでに利益確定分だけで目標を達したという。事業の収入と合わせて年収1000万円超を確保している。今後の人生について「投資は続けていきますが、70歳まで働きたいとは思いません。65歳ですっぱりと仕事を辞めて、今までやりたいと思ってやれなかった趣味や旅行など自分だけの楽しみを追求したい」と語る。

61歳から乗馬を楽しんでいる。年齢は関係ない、人生は知恵とアイデアでいつでも巻き返しが可能なのだ。

(人事ジャーナリスト 溝上 憲文 写真=PIXTA、iStock.com)

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