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なぜ日本人妃が朝鮮最後の王に嫁いだのか

プレジデントオンライン / 2019年3月11日 6時15分

李方子妃/皇室皇族聖鑑 昭和篇

2018年10月、韓国最高裁で「元徴用工」の賠償権が認められた訴訟は、日韓関係に影を落としています。韓国は日本の不法な植民地支配を主張していますが、実際には、1910年の韓国併合から第2次世界大戦にかけて、日本は韓国のことを「日本の一部」として、さまざまな支援を行ってきたのです。その「愛情」の一つだといえるのが、皇族・方子妃を韓国王族・李垠に嫁がせたこと。彼女の生涯を追いながら、当時の日韓関係を見てみます。

■朝鮮は「植民地」という搾取の対象ではなかった

かつて、日本は韓国のことを大切に考えていました。今日の我々が想像する以上にです。方子(まさこ)妃の存在がそれを示します。日本は韓国・朝鮮人を同胞と見なし、皇族女性を韓国王族に嫁がせ、姻戚関係を結びました。その女性が方子妃です。

昨年の10月のいわゆる「元徴用工」裁判の判決文では、日本の不法な植民地支配下でなされた強制動員への「慰謝料」として、「元徴用工」の賠償権が認められました。しかし、日本は「不法な植民地支配」などしていません。

当時の韓国・朝鮮半島は日本の「植民地」ではなく、「日本の一部」だったのです。日本と半島の関係は例えるならば、かつてのイギリスとアイルランドとの関係に近いものです。イギリスにとって、インドは植民地でしたが、アイルランドは植民地ではなく、「イギリスの一部」でした。これと同じことが日本と半島との関係についても言えます。

日本が当時の半島を植民地という搾取の対象として見ていたのならば、皇族が韓国王族と姻戚になることはあり得ません。イギリスは植民地インドの帝室(旧ムガル帝国)に対し、王族を嫁がせるという発想すら持ちませんでした。ただの搾取の対象に過ぎなかったからです。皇族を嫁せた日本は半島を決して、そのように捉えていなかったのです。

日本は極貧状態であった韓国に、道路・鉄道・学校・病院・下水道などを建設しました。特に、ソウルでは、劣悪な衛生状態で様々な感染症が蔓延していたため、病院の建設など医療体制の整備に最も力を入れました。支出が超過するばかりで、日本にとって何の儲けにもなりませんでした。

今日、日本の学校の歴史教育では、日本の朝鮮統治が植民地的収奪であったかのようなイメージを教えられ、「当時の韓国=植民地」という図式が多くの日本人の頭の中に刷り込まれています。しかし、方子妃の威厳に満ちた歩みを冷静に見ていけば、日韓関係の真実もまた、見えてきます。

■方子妃の夫・李垠とはどのような人だったのか?

1920年、戦前の11宮家の一つであった梨本宮の守正王の第1王女・方子妃は韓国の李氏王族の李垠(りぎん、イ・ウン)殿下と結婚します。方子妃は真面目で気品のある女性で、昭和天皇の妃候補の一人とされていました。そんな方子妃が自分の結婚相手を知らされたとき、「なぜ、自分が異国の王族に嫁がなければならないの」と言って、泣き崩れました。

方子妃の相手の李垠殿下は幼少期から日本で教育を受け、学習院や陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業します。日本陸軍に所属し、軍人として有能であったため、順調に昇進しました。1936年の二・二六事件の際、殿下は歩兵連隊長として、大隊を率い、反乱軍の鎮圧にあたっています。

日清戦争で清王朝からの独立が認められた朝鮮は1897年、大韓帝国となります。帝国の誕生により、李氏王族は皇族となりました。しかし、国民は失政を重ねてきた李氏の統治に愛想をつかしていました。実際に、大韓帝国になってからも、政治は機能不全の状態が続き、国民の生活は苦しいままでした。

そのため、日本の統治を望む声が半島の人々の間でわき起こり、大韓帝国側から要請される形で、1910年、日韓併合条約を結び、文字通り、大韓帝国を日本の一部として「併合」し、日本が合法的に統治することになったのです。当時の朝鮮は「日本の一部」であり、法的にも、日本の連邦を構成していた地域の一つという位置付けでした。

併合により、大韓帝国が消滅したため、韓国の皇族は皇族としての身分を失い、代わりに、大日本帝国の皇族に準じる王公族の身分を与えられました。当時の皇帝・純宗は李王となります。純宗は李垠殿下の異母兄にあたります。純宗は1926年、心不全で死去し、李王の地位は李垠殿下に引き継がれました。

■仲睦まじかった李垠殿下夫妻

韓国では、「李垠殿下は大日本帝国の人質だった」と教えられています。人質に、日本皇族の女性が嫁ぐことはあり得ませんし、日本が韓国に対して、人質をとらなければならなかった必要性などもなかったのです。

李垠殿下は幼くして、日本に留学しました。それを「強制連行した」と韓国では教えられています。学校さえまともになかった当時の韓国を哀れみ、日本は李垠殿下ら韓国王族に教育の場を提供しました。彼らが高度な教育を受けて、世界の情勢を理解できるようになり、日本人の同胞として育っていってくれることを期待しました。当時の大正天皇の皇后は幼少の李垠を可愛がり、大切に養育しました。「強制連行」などという事実はまったくありません。

ところで、韓国併合後、日本は半島各地において、学校建設と公教育の制度化にも力を注いでいます。

李垠殿下は日本の文化に造詣が深く、日本の礼儀作法なども身につけており、真面目で寡黙でした。当初、結婚を嘆いていた方子妃もそんな殿下を心から慕うようになります。李垠夫妻は旧李王家邸(1930年建設)に居住しました。この邸は2011年に閉館した赤坂プリンスホテルの旧館で、現在、「東京ガーデンテラス紀尾井町・赤坂プリンスクラシックハウス」として残っています。夫婦はここで、仲睦まじく暮らし、当時の日韓関係の良好さを象徴する存在として注目を集めました。

李垠殿下夫妻は2男をもうけました。1922年、夫妻は生後8カ月の晋(しん)を連れて、朝鮮を訪問し、純宗に謁見しました。その後、しばらくして、晋は下痢・嘔吐をし、ソウルで急逝します。急性消化不良と診断されていますが、日本皇族との結婚に反対した民族主義者による毒殺とする説もあります。夫妻は悲しみのどん底に突き落とされます。

第2子の玖(きゅう)は学習院高等科卒業後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958年、ヨーロッパ系アメリカ人女性と結婚し、アメリカに帰化しました。その後、両親の韓国帰還に伴い、韓国で事業をしますが、失敗しました。玖は上記の東京旧李王家邸で2005年、死去しました。玖には、子がなかったため、李垠殿下の直系子孫は断絶しました。

■韓国で生涯を閉じた方子妃の誠心誠意

戦時中、日本の士官学校で教育を受けた半島出身者の多くの将校らも日本軍と共に勇敢に戦いました。戦後、彼らの多くが韓国で、軍の要職に就きました。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領などはその代表です。

1947年、日本国憲法が施行されると王公族制度が廃止され、李垠殿下は李王の位を喪失し、一介の在日韓国人となります。李垠夫妻は帰国を大韓民国に申請します。方子妃は夫に従って、韓国へ渡る覚悟でした。しかし、当時の李承晩(イ・スンマン)大統領が王政復活を警戒し、帰国を受け入れませんでした。韓国国民も自分たちの王族を呼び戻すべきと声を上げることなく、見捨てました。

失意の李垠殿下を方子妃は献身的に支えました。ようやく、1962年、朴正煕大統領の時代に、李垠殿下夫妻は韓国籍取得と帰国を認められます。翌年、夫妻は韓国へ帰還しますが、殿下は脳梗塞を患っており、ソウルで入院生活を続けました。

方子妃は7年間、懸命に夫を介護しました。韓国国民も方子妃の献身ぶりを称賛し、温かく接しています。殿下の死後も方子妃は韓国に留まり、昌徳宮の楽善斎で暮らしました。方子妃は1989年、87歳で死去します。

方子妃は日本と韓国の架け橋となり、相互の友好を願いながら、夫に尽くした生涯を送りました。我々は方子妃の誠心誠意を決して忘れてはなりません。

方子妃の願いが叶い、1965年には日韓基本条約が結ばれ、両国は正式に国交を結び、日本が韓国を経済的に支援することになりました。こうした歴史の真実を、「植民地」や「不法統治」などと言って、日本を批判している韓国の人々にこそ、理解して頂きたいものです。

(著作家 宇山 卓栄)

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