"早稲田卒→銭湯番頭"28歳女性の生き方
プレジデントオンライン / 2019年4月2日 9時15分
■休職中に癒やしてくれた銭湯へ恩返しをしたい
東京・高円寺で86年の歴史を刻む銭湯「小杉湯」の番頭をしながら、全国の銭湯を訪ね歩き、独特の温かい絵柄のイラストにしている女性がいる。塩谷歩波(えんや・ほなみ)さん、28歳だ。
塩谷は早稲田大学で建築を学び、都内の設計事務所で働いていた。だが体調を崩し休職。そんな時に出合ったのが、友人が勧めてくれた銭湯だった。傷ついた心身を癒やしてくれた銭湯に恩返しをしたいと考え、建築の図法を用いて建物の俯瞰図を描き、コメントを添えて「銭湯図解」としてSNSで発信。そのイラストが評判を呼び、今や雑誌やWEB媒体から、連載の依頼が途絶えることはない。
3月3日放送のドキュメンタリー番組「情熱大陸」では、銭湯にとりわけ熱い思いをもって働き、絵を描き続ける彼女の日常を通し、銭湯の持つ魅力を浮き彫りにした。
■イラストが「小杉湯」で働くきっかけに
バレンタインデーの夜。都内の銭湯でささやかなパーティーが開かれていた。主役は塩谷さんである。作品が初めて本にまとめられ、晴れて出版にこぎつけた。
刷りたての本を手渡され「うれしいです」と涙が溢れる理由……。それは処女作完成の喜びだけではなかった。早稲田大学で建築を学び、夢だった設計事務所での仕事に没頭するあまり「機能性低血糖症」を発症し休職。全てに絶望していた状況から、はいあがるきっかけをくれたのが銭湯だったという。
【塩谷】「もうホントに感謝しかないです……。だって銭湯のおかげで体調も治ったし前向きな性格にもなったし、友達もいっぱい増えたし、立ち直れたし」
各地の銭湯をめぐり、広さや浴槽の形、お湯の温度やタイルの色などを正確に写し取ったイラストを描いた。それにコメントを添えてツイッターで発信したことで、徐々にファンが増え、その縁で東京・高円寺の「小杉湯」で働かないかと声をかけられたのだ。
■一日の終わりは「小杉湯」で締めくくる
世間体や互いの境遇などを気にせず、湯けむりの中で裸同士の気取らない会話ができるのが銭湯の魅力。番頭をしながら、入浴方法や注意書きなどを親しみやすいイラストで描いている。
【塩谷】「熱湯と水風呂を交互に入る『交互浴』が人気です。(入浴方法を解説する)チラシもわたしが担当しています」
今の自分があるのは全て銭湯のおかげと語り、1日の終わりには必ず小杉湯で入浴してその日を終える塩谷さん。小杉湯はもはや「家風呂」なのだ。
■建築図法を応用してイラストにする
塩谷さんは各地の銭湯をくまなく取材して主人に話を聞いている。この日訪ねたのは、以前からどうしても訪ねたかった千葉市検見川の「梅の湯」だ。
取材は営業前の1時間で迅速に行う。まずは測量からスタートし、浴槽それぞれのサイズからタイル1枚の大きさまでどこまでも正確に測っていく。
ここ梅の湯を訪ねたかった1番の理由は、男湯に描かれているペンキ絵にあった。岩手県陸前高田の「奇跡の一本松」の絵。店主によると、当初は1年で別の絵にするつもりだったが、千葉に住む東北の人たちに「忘れないでほしい」と懇願され4度も書き換えているという。そんな背景も温かなイラストに落とし込んでいく。
測量データから縮尺は60分の1と決め、A4サイズの紙1枚に男湯と露天風呂を収めることにした。大学院まで建築を学んだ塩谷。下書きには製図用の定規を使い、建物を斜め上からのぞき込む建築図法を応用していた。
物差しを使うと絵が硬くなるので、下書きで引いた定規の線を清書ではフリーハンドでなぞっていく。ペン画が完成すると水彩で色をのせる。色付けには彼女なりの愛情がこもっていた。
■父親とのコラボで「1日限定のコーヒー風呂」
小杉湯の入浴料は460円。この値段でどこまでサービスできるか。銭湯の楽しみ方をあらゆる角度で提案しようと協力を仰いだのは父親の健一郎さんだった。数年前に脱サラし、現在はコーヒー焙煎の専門店を営んでいる。塩谷さんは父の選りすぐりのコーヒー豆を使って「1日限定のコーヒー風呂」を作ってみたいと考えたのだった。
コーヒー風呂当日。父から届いた豆は、カカオが匂い立つブラジルショコラとピーチやベリーを思い出すモカ・イルガチャフィー。いずれも豊かな香りが持ち味だ。開店早々やってくる常連に加え、噂を聞きつけたファンで浴室はたちまち一杯になる。
【客】「うわ! すっげぇ」
【客】「めちゃくちゃいい匂いがする」
【客】「コーヒー好きなのでずっと入っていられる」
さらに、風呂上がりに淹れたての一杯を楽しんでもらうため、母親の美苗さんも駆けつけて母娘でコーヒーのおもてなし。
■「世間体を気にしていたんだと思います」
最後の客が帰った後は、父が焙煎したとびきりのコーヒー風呂を母と2人で満喫した。そんなささやかな幸せで、心と体は十分満たされる。
【塩谷】「早稲田を出て設計事務所に入って、その先に銭湯ってドロップアウトなのかなって……。でも、そう思いながらも銭湯の仕事は魅力的だと思っていました。自分で世間体を気にしていたんだと思いますね」
過去の自分を振り返りながら、風呂場を入念に磨く塩谷さん。自信を取り戻すことができた場所だからこそ、いつもピカピカにしておかなければ……。
塩谷歩波28歳。銭湯で働きながらイラストレーターとして再出発したばかり。この先どんな仕事が舞い込もうとも、心のよりどころはずっと銭湯にある。
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銭湯イラストレーター
1990年東京生まれ。2015年に早稲田大学大学院(建築学専攻)修了後、都内の設計事務所に勤める。16年末より銭湯の建物内部を俯瞰図で描く「銭湯図解」シリーズをSNS上で発表。現在は高円寺の銭湯・小杉湯で番頭として働きながら、イラストレーターとして活動中。全国で訪れた銭湯の数は200軒以上。真面目で几帳面な人柄で今回の取材にも全面的に協力してくれたが「すっぴんは絶対に見せない!」という28歳。
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(「情熱大陸」(毎日放送) 写真提供=毎日放送)
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