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埼玉のプロが紐解く『翔んで埼玉』のネタ

プレジデントオンライン / 2019年3月30日 11時15分

©2019 映画『翔んで埼玉』製作委員会

映画『翔んで埼玉』が大ヒットしている。内容は荒唐無稽。劇中では「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ」といった言葉で「ダさいたま」がとことん否定される。だが、意外にもそうした描写は歴史的事実と無関係ではないという。「埼玉の歴史のプロ」である埼玉県立文書館の佐藤美弥学芸員が解説する――。

■手形を持たずに東京に入れば、たちまち捕らえられる世界

映画『翔んで埼玉』(武内英樹監督2019)が人気である。公式ウェブサイトによれば「埼玉県内オープニング興行収入・東映歴代実写映画史上圧倒的No.1!」であるという。筆者は2019年3月13日に埼玉県さいたま市浦和区の劇場で鑑賞した。平日の夜の回にもかかわらず、268人のスクリーンが満席札止めとなっていて、その人気を実感した。

『翔んで埼玉』は魔夜峰央のコミック(『花とゆめ』白泉社、1982‐1983、宝島社2015)が原作で、「都会指数」の高い東京都とそれ以外が厳然と区別される架空の世界が舞台である。埼玉県は荒野の掘っ立て小屋にわずかな人々が住むような地域であり、埼玉県人が東京都に入るには通行手形が必要とされ、手形を持たずに荒川を渡ればたちまち捕らえられてしまうような世界で、埼玉県人解放のために立ち上がる男がいた、というようなストーリーである。

映画は架空の世界を描く「伝説編」と、ラジオで放送される伝説を聴く家族を描く「現代編」が交互に進む。「なにもない」「まとまりのない」埼玉県・埼玉県人が徹底的に否定される(「ディスる」)ことを通して、現状を変革する主体としての自覚が呼び起こされていく。最後には「そこそこいいものがいろいろあるよね」という埼玉県のよさが確認され、大団円となる。

©2019 映画『翔んで埼玉』製作委員会

■埼玉県を痛烈に「ディスる」ご当地ネタが満載

原作が埼玉と東京、田舎と都会の対立を前面に押し出し、詳細までは踏み込まない内容であったのに対して、映画は、埼玉と東京だけでなく群馬、千葉、神奈川など関東諸県を絡めたストーリーに大胆に翻案され、また随所に埼玉県を痛烈に「ディスる」ご当地ネタがちりばめられている。

東京都民の弾圧に耐え忍ぶ埼玉県人の姿には悲痛な感じがあり、埼玉県人が県内各地域から集結し、旗を立て東京へと進撃するシーンは1884(明治17)年に埼玉県秩父地域で発生した農民蜂起を描いた映画『草の乱』(神山征二郎監督2004)をなんとなく想起させるところもあったが、全体的には荒唐無稽で笑いが絶えないコメディドラマである。

「伝説編」で説明される埼玉県の成り立ちなどの歴史は、「都市伝説」と断りを入れてあるだけあって事実ではない。しかし、そこに描かれるさまざまな「埼玉ネタ」について、埼玉県の歴史や文化を知ることでより深く味わうことができるのではないかと感じた。

■江戸時代までは「小さな領主の土地」が複雑に絡み合っていた

そもそも埼玉県というのはどのような成り立ちか。「さいたま」という地名は古く、奈良時代の文書に現在の埼玉県北東部に設置された郡の名前として出現する(このときは「前玉(さきたま)」という表記)。

江戸時代までは「埼玉」とは埼玉郡の地域を指していたのみで、現在の埼玉県全体が「埼玉」と呼ばれるようになったのはそれほど古い時代の話ではない。江戸時代の現在の埼玉県は古代律令制の時代に設置された旧国名でいえば、武蔵国(むさしのくに)の一部であった。武蔵国は現在でいえば埼玉県、東京都、神奈川県の一部を含む地域である。

廃藩置県直後の埼玉県域諸県(図版=『新編埼玉県史図録』埼玉県、1993より)

しかし江戸時代には、すでに「国」は支配の単位ではなくなっていて、武蔵国には徳川氏が将軍である江戸幕府の直轄の領地、江戸幕府に仕える旗本の領地、そして徳川将軍から領地を支配することを認められた諸大名の領地、そして神社や寺院の領地があった。たとえば現在の山口県は大名毛利氏が、鹿児島県は島津氏が一円を支配していたような一体性があったわけではなく、小さな領主が支配する所領が複雑に絡み合っていたのである。

1871(明治4)年の廃藩置県直前には、武蔵国のうち現在の埼玉県域は、だいたい幕府領、旗本領、大名領がそれぞれ3分の1ほど、のこりの1パーセントほどが寺社の所領であった。江戸時代にはそうした所領ごとに支配が行われた。こうした事情が埼玉県の諸地域の個性を生み出したといえる。

■場合によっては埼玉県は「足立県」だったかもしれない

埼玉県域の変遷(図版=『新編埼玉県史図録』埼玉県、1993より)

このような状態に変化がもたらされるのが1868(慶応4・明治元)年の明治維新である。

明治元年、戊辰戦争に勝利しつつあった新政府は、諸藩の領地はそのままに、幕府や旗本の旧領に新たに県を置いた。1871(明治4)年には廃藩置県を行い、藩を県とした。その後、同年10月から11月にかけて大規模な府県統合が行われ、錯綜した支配の解消が行われた。埼玉県は11月14日に誕生、現在ではこの日が埼玉県民の日となっている。

しかし、このときの埼玉県は、現在の埼玉県のうちおおよそ荒川から東側のみであった。それが現在の県域となったのは、後述するようにもう少し後のことだ。また、県庁所在地は当初埼玉郡下の城下町であった岩槻(現・さいたま市岩槻区)に置かれる予定であった。埼玉県の名称はこのことに由来すると考えられている。ちなみに実際に県庁が置かれた浦和は足立郡であり、最初から浦和が県庁所在地に予定されていたら、「足立県」となっていたかもしれない。

このように現在の「埼玉」とは歴史的に形作られてきたものであった。

■「熊谷は、群馬ではないか」の歴史的背景

劇中の「埼玉ネタ」にまつわる歴史的背景について、いくつか述べてみよう。

「現代編」で埼玉出身の夫(ブラザートム)と千葉出身の妻(麻生久美子)が口論する場面がある。妻は埼玉愛を主張する夫に対して、夫の出身地である熊谷は「埼玉ではなく、群馬ではないか」と難じる。もちろん現在の熊谷は埼玉県の一部であるが、実は熊谷を含む埼玉県西部が現在の群馬県と1つの県であった時代があった。

前述のように埼玉県ができたのは1871(明治4)年のことであった。そのとき熊谷を含む現在の埼玉県の西側には、川越を県庁所在地とする入間県が設置された。その後、1873(明治6)年6月に入間県は群馬県と統合し、熊谷を県庁所在地とする熊谷県が成立した。熊谷は群馬どころか、熊谷の名前を冠する県の県庁所在地であったのである。

©2019 映画『翔んで埼玉』製作委員会

そうした意味で埼玉県北部と群馬県が近い関係にあるのは理由がないことではないのである。この熊谷県の時代は短く、1876(明治9)年8月には元の入間県の部分が埼玉県と統合し、ほぼ現在の領域をもつ埼玉県が形作られることとなる。

ちなみに、映画中盤の山場に県境の江戸川にかかる流山橋を挟んで埼玉県人と千葉県人が対決する場面がある。現在では江戸川が埼玉と千葉の県境であるが、これも最初からのことではない。現在の幸手市から松伏町のあたりでは、1871(明治4年)の府県統合の際には埼玉と千葉(この時は印旛県と呼ばれていた)の県境は、武蔵国と下総国の境界であった庄内古川(中川)とされた。

しかし、河川管理などの都合上、中川の東の江戸川を境界としたほうがよいということとなり、1875(明治8)年、この地域でも江戸川が県境となったのである。このとき中川と江戸川の間の葛飾郡43カ村に住む人々は千葉県人から埼玉県人となったのであった。

■「埼玉の所沢には東京航空交通管制部がある!」

同じ夫と妻の口論の場面で、お互いに埼玉と千葉のいいところを言い合うなかで、妻の「千葉には成田空港(新東京国際空港)がある」に対して、埼玉県出身の夫は「埼玉の所沢には東京航空交通管制部がある!」と力説する。航空交通管制部は航空機の交通をコントロールする重要な機関であるが、それが所沢に設置されていることにも歴史的な理由がある。

日本で最初に飛行機が飛行したのは1910(明治43)年、陸軍代々木練兵場(現在の代々木公園など)でのことで、1903年に米国のライト兄弟が初飛行してから約7年のことであった。この日本での初飛行の翌年に日本最初の飛行場が建設されたのが、実は所沢であった。これは陸軍の飛行場で、その後、所沢には航空教育のための学校が設置され、周辺の埼玉県内にも多くの陸軍飛行場が建設された。

このように、埼玉県は日本航空史における重要な場所であった。東京航空交通管制部はこの所沢陸軍飛行場の跡に置かれている。このほか飛行場跡は所沢航空記念公園となり、また所沢航空発祥記念館がある。

劇中にはさまざまな「埼玉ネタ」がちりばめられているが、このようななにげないやりとりのなかにも埼玉県の歴史や文化が垣間見える。

■「埼玉らしさ」とはアイデンティティ探求の裏返し

1871(明治4)年に埼玉県ができたとき、入間県を含む現在の埼玉県域に住む人々はだいたい90万人ほどで、1883(明治16)年には100万人ほどであった。それから半世紀経過したアジア・太平洋戦争敗戦の1945(昭和20)年には人口200万人を超えた。

その後、高度経済成長期を迎え、埼玉県は巨大都市東京のベッドタウンとして膨大な数のニューカマーを迎える。1965(昭和40年)に300万人となった人口は、1971(昭和46)年に400万人、1977(昭和52)年に500万人、1987(昭和62)年に600万人というペースで増加し続けた。現在では推計人口732万人(2019年2月1日現在)を数える。

このようにみると「翔んで埼玉」が発表された1982(昭和57)年とは、急激に増加した新たな埼玉県人が埼玉県で生活を営みつつあった時代であった。「なにもない」埼玉という決まり文句は、埼玉とは何か、何があるのか、というニューカマーによる「埼玉らしさ」というアイデンティティ探求の裏返しだったともいえるのではないだろうか。

草加松原団地(1966年撮影、埼玉県立文書館収蔵埼玉新聞社撮影報道写真より)

■突出してはいないが、そこそこいいものがたくさんある

そうして現在共有されつつある「埼玉らしさ」とは、映画のなかでも言われているような、突出してはいないが、そこそこいいものがたくさんある、というようなものである。一方、埼玉県の地域にはそれぞれの歴史があり、また多くの魅力的なモノやコトがある。「まとまりがない」ともよくいわれる埼玉県だが、むしろ歴史のなかで形成されてきたそうした多様性こそが埼玉県の特徴といえるのではないだろうか。

映画『翔んで埼玉』を通して、埼玉に興味を持たれたならば、それをきっかけにぜひ埼玉を訪れていただき、本当の埼玉の歴史や文化に触れていただければ幸いである。

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佐藤 美弥(さとう・よしひろ)
埼玉県立文書館 学芸員
博士(社会学)。日本近現代史を研究。一橋大学大学院社会学研究科特任講師、埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員を経て、2016年より現職。担当展覧会に企画展「埼玉の自由民権」(埼玉県立歴史と民俗の博物館2015)など。

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(埼玉県立文書館 学芸員 佐藤 美弥)

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