1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

山根元会長「私は裸の王様になっていた」

プレジデントオンライン / 2019年3月30日 11時15分

山根明氏(『男 山根「無冠の帝王」半生記』より/撮影=高田遼)

2018年8月、助成金不正流用などの責任を取って、山根明氏が日本ボクシング連盟会長を辞任した。この辞任騒動では、山根氏の強烈なキャラクターが注目を集めた。山根氏は当時を「気がつけば“もう一人の私”が作り上げられ、本物の私は裸の王様のように、踊らされてしまっていたのかもしれない」とふりかえる――。

※本稿は、山根明『男 山根「無冠の帝王」半生記』(双葉社)の一部を再編集したものです。

■1日が何カ月にも何年にも感じられた

平成30年(2018年)8月。

80年近くを生きてきて、あれほど蒸し暑く、寝苦しい日が続いた夏は、これまで経験したことがなかった。まだ半年前のこととは思えないほど、1日が何カ月分にも、何年分にも感じられる毎日を過ごした。

ご覧いただいた方もおられるかもしれないが、あの騒動が起きてから、私は取材を受けるたびに「ボクシングに命をかけてきた」と発言してきた。中には「何を大げさなことを言ってるんだ」と、呆れた方もいるだろう。しかし私は確かに、自らの“命”を張って、日本のアマチュアボクシング界の“盾”となってきたつもりだ。

■試合を中断させて1時間の抗議

平成10年(1998年)にタイ・バンコクで行われたアジア競技大会、通称キングス・カップに日本代表選手団の監督として引率した時のことだ。村橋薫選手(ライトフライ級/当時、法政大学所属)の試合の判定をめぐって抗議し、背後から銃で撃たれたことがある。村橋選手はその銃声に気づいていないようだったし、幸いにも銃弾が命中することはなかった。しかし、その殺意は間違いなく、私に向けられたものだとわかった。

村橋選手の相手は、タイの選手だった。1ラウンド終了のゴングが鳴り、レフリーが試合を止めに入った瞬間、相手選手が村橋選手にパンチを出し、KOになった。

当然、ゴング後のパンチでKOなど、納得できるはずがない。私はすぐさまリングに上がり、試合を中断させて1時間にわたって抗議した。

「なんや、今のは! ゴングが鳴ったあとにパンチを出しとるやないか! 反則だろう! ふざけるな、こらあ!」

そもそも私は、頭に血が上りやすい質だ。20年も前のことだから、当時は今よりも、もっと血の気が多かったと思う。日本語で荒々しい暴言もたくさん吐いた気がするし、今にも乱闘になりかねない状況だったことは鮮明に覚えている。結果、判定は覆った。私の主張が認められ、タイの選手が反則負けとなったのだ。

■観客の怒号と背後で鳴った銃声

その時だ。会場の雰囲気がガラッと変わった。日本でも、アマチュアボクシングに限らず、格闘技の試合ともなれば観客は声を張って声援を送っている。自分が応援していた選手が負ければ、時には声を荒らげて怒りを露わにするファンも珍しくない。

山根明『男 山根「無冠の帝王」半生記』

「クソ野郎! ふざけるんじゃねえ!」
「日本人は負けたんだろうがよ! 誰だ、てめえ!」
「俺の金を、どうしてくれるんだ、こらあ!」

言葉こそわからないものの、おそらく、こんなようなことを叫んでいたのだろう。

海外におけるボクシングというのは、アマチュアであっても、多くの場合ギャンブルの対象であり、観客席では毎試合、多額の金が動いている。おそらく、あの試合もそれは同様で、私の抗議によってタイの選手が負けてしまったがために、損をした客は少なくなかったはずだ。次の瞬間、背後から銃声がした。

パンッ。

■アマチュアボクシング界では大金が動く

アマチュアボクシング界において、大金が動くのは客席だけではない。国際ボクシング協会(AIBA)での活動を通し、役員たちが命と大金をかけて駆け引きする様を、私は何度も目の当たりにしてきた。ギャンブルの対象になるということは当然、興行関係者にも、それなりの筋の人間が多くなる。

この大会以前にも、試合の判定をめぐる私の行動を快く思わない連中から、「殺すぞ」と背中に銃口を突きつけられたことがあったし、負けた選手の親が判定をめぐって激怒し、元AIBA会長、アンワール・チョードリー氏を殺そうとする事件も起きた。おそらく、アマチュアボクシングの世界大会の結果を見れば、皆さんも“何かの力”が働いているのではないかと、思わず疑ってしまうに違いない。

ちなみに、この時の大会では12階級中5階級で、開催国であるタイの選手が金メダルを獲得。銅メダルも3つ獲得している。さらに、現AIBA会長のガフール・ラヒモフ氏が率いるウズベキスタンは金メダルを3つ、銀メダルを4つ、銅メダルを2つ。現AIBA副会長のセリク・コナクバエフ氏率いるカザフスタンは金メダルを3つ、銀メダル、銅メダルをそれぞれ1つずつ獲得した。

■「当たってたら、死んでたんやろな……」

もちろん、現在のアマチュアボクシング界が“そうした体質”を引きずっているかどうかはわからない。しかし少なくとも当時は、選手の力だけでは、なかなかメダルを獲得できないのが現実だったのだ。メディアが言うところの「奈良判定」どころの話ではない。だからこそ、そうした場面に直面すると、私は真っ先にリングに上がり、大声を上げて抗議してきた。それが私の役目であり、選手たちの努力を無駄にしないためにしてやれる、唯一のことでもあった。

「当たってたら、俺は死んでたんやろな……」

背後で銃声を聞いたあの日、ホテルに戻ってから急に恐怖が襲ってきた。けれど、もし、あそこで私が引いてしまっていたら、日本の選手たちはこの先もずっと、“政治”や“金”に負け、勝ち上がっていけなくなってしまう。私は、「日本のアマチュアボクシング界のために、もっと強くなろう」と、そう自分を奮い立たせた。

■支えてくれた人たちのために声を上げた

あれから20年。私への告発を行った333人によれば、命をかけて守ってきたはずの日本のアマチュアボクシング界にとって、一番の“癌”は私だったという。ショックなどというものではない。気がつけば、私は「裸の王様」になってしまっていたのだ。

黙って辞任して、あのまま消えてしまうという選択肢もあったのかもしれない。しかし、自分と自分を支えてくれた人たちの名誉のために、事実でないことは事実でないと、声を上げずにはいられなかった。私は嘘が嫌いだし、いつだって、その時を一生懸命、生きてきただけだ。

■見知らぬ青年が死を思い留まらせてくれた

ただ、これまで取り上げてくれたメディアの多くは、私の発言をおもしろおかしく切り取るだけで、すべての思いを伝えてくれる媒体はほとんどなかった。先日も、話を聞くというから取材を受けたのに、ひたすら犬の散歩をするシーンだけを撮影されるなんてこともあった。

命をかけて守ってきたアマチュアボクシング界から追い出され、私は一瞬、死を覚悟したこともあった。その時、私を思い留まらせてくれたのは、見ず知らずの青年だった。

「山根会長! 応援してますよ! 負けんでください!」

そのひと声で我を取り戻し、私は今、ここにいる。あのまま、もし死んでしまっていたら、「真実」をお話することはできなかった。苦労をかけてきた妻と、テレビに出ている自分を見ながら笑い合うこともできなかった。80歳になる年を、まさか、こんなに穏やかに迎えることができるなんて、あの時の自分には想像もできなかったのだ。

あの青年だけではなく、大阪には見ず知らずの私を応援してくれる人がいる。街中で話しかけられるたびに、いつも嬉しさで涙が溢れそうだ。私は今、ボクシングではなく、そんな名も知らぬ人たちに生かされている。

1954年、ボクシングの試合をする山根氏。右下のカコミは当日客席にいた力道山(画像提供=著者)

■いまだ腑に落ちない「使途不明金」

一方で、いまだに、まったくもって腑に落ちないのは「連盟の使途不明金」問題だ。

大きな決定ごとは私に委ねられていることが多かった分、小さな日常ごとはすっかり下の人たちに任せ切っていた。経理面については特に、信頼できる理事2人が担当していて、一人は有名な弁護士でもあった。その彼が信頼して頼んだ税理士さんに入ってもらっていたし、何か問題が起きるとは、私には思えなかった。実際、告発が起きてすぐ、私は経理担当者に確認した。

「使途不明金って、どういうことやの? 何か問題があるの?」
「いやいや、税理士さんとやってますから、大丈夫ですよ。会長は心配しないでください」

そう言われて、私は安心していた。

「おもてなしリスト」なるものについても、似たようなものだ。いつだって、連盟の理事たちが先に動いてくれていた。私が言うのもおかしいが、彼らの“忖度”によって生まれたものとしか説明のしようがない。

■「革張りの椅子以外NG」指示したことはない

確かに私は好き嫌いが多いため、関係者と食事をする際に、それが目についたのだろう。気を遣ってもらったことなので、それを否定するのも心苦しいが、ただ、私から何かを用意しておけ、革張りの椅子でなければダメだ、などと指示したことは一度もない。やはり、こちらもすべて、私は周囲に身を任せていたのだ。

ここ数年、時々、大学の関係者から、「○○さんから、山根会長に指示されたと言われましたが、本当ですか?」と連絡をもらうことが増えていた。気がつけば、私の知らないところに、“もう一人の私”が作り上げられ、本物の私はというと、裸の王様のように、踊らされてしまっていたのかもしれない。

■ただ強いだけでは勝てない世界

2000年、シドニー五輪開催中に開かれた、ミズノスポーツ主催のパーティにて。左からサマランチIOC会長、FIFAのゼップ・ブラッター会長、金雲龍IOC副会長、著者(肩書はすべて当時/画像提供=著者)

世界の舞台に出たことで、私は悲しいかな、スポーツとは、ただ強いだけでは勝てないのだという現実を目の当たりにした。それは、私が戦後生き抜いてきた、どの時期の生活とも似ていて、とにかく人間力と政治力が物を言う世界なのだと知った。

しかし、それは選手には関係のないことであってほしい。その思いで、必死に矢面に立ってきたつもりだった。そこには、なんのたくらみもない。私の「真実」は、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

私は今、不思議と人生で一番穏やかな日々を送っている。これまで散々苦労をかけてきた妻と、ようやくゆっくり過ごす時間ができた。先日など、Vシネマへの出演依頼をもらい、俳優デビューも果たしてしまった。

人生は本当にわからないものだ。今はまだ、「もうボクシングになんて関わらない!」という気持ちが大きいが、それもいつか、変わる時が来るかもしれない。その時はまた、いちファンとして試合会場に足を運べたら、きっと楽しいことだろう。

----------

山根明(やまね・あきら)
日本ボクシング連盟前会長
1939年10月12日、大阪府生まれ。91年に日本ボクシング連盟理事、94年に国際ボクシング協会常務理事に就任。「アマチュアボクシング不毛の地」であった奈良県を「ボクシング王国」へと引き上げる。2011年に日本ボクシング連盟会長に就任、12年に終身会長に。18年7月、「日本ボクシングを再興する会」からの告発状提出を受け、同年8月に会長および理事を辞任する。

----------

(日本ボクシング連盟前会長 山根 明)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください