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さんまの"生きてるだけで丸もうけ"の真意

プレジデントオンライン / 2019年4月11日 9時15分

プロ野球・西武戦の試合前に、お笑いタレントの明石家さんまさん(左)と、記念撮影に納まる日本ハムの清宮幸太郎選手=2018年10月3日、札幌ドーム(写真=時事通信フォト)

芸人・明石家さんまは、40年近くバラエティの最前線で活躍し続けている。常に笑いに貪欲な姿勢は、どこから生まれたのか。ライターの戸部田誠さんは、「若い頃からさんまは生き急いでいた。それがさらに加速したのは、92年の離婚と借金がきっかけだ」と分析する――。

※本稿は、戸部田誠『売れるには理由がある』(太田出版)の一部を再編集したものです。

■話し相手さえいれば笑いを起こせる男

間が抜けた軽快な音楽がなると、スタジオの中央には丸テーブルを挟んで、明石家さんまとタモリが立っている。ふたりは、すぐに即興で話し始める。

「俺が遅刻多いんで、『俺が近道を教えてあげる』って、一緒に行って警察に捕まったの覚えてるでしょ?」

何度となく話した鉄板話を淀みなく話し始めるさんま。

「あんただけはとんでもなくひどい男だと思ったわ」

そう言いながら、時に脱線しながら、時に簡潔に、時にボケながら、話のディテールを語っていく。

車の免許をとって間もなくの頃、タモリがさんまにスタジオアルタまでの近道を教えてあげようと、ある日、さんまの車にタモリが同乗し、アルタに向かった。すると、環七通りを走っているとき。車線変更をした際に、警察に止められてしまった。

「しもたーって。でもさんまとタモリを警察の人も知ってはるから。『すみまへん、「いいとも!」に間に合いまへんねん。急がなあかんから勘弁してくれませんか?』ってタモリさんに『ねえ?』って言ったら『別に。まだ大丈夫だよ』って」

タモリが突っ伏して笑い、場内も爆笑に包まれる。

明石家さんまにかかれば、セットなど丸テーブルひとつで十分だ。いや、それすらいらない。話し相手さえいればいい。それが先輩芸人、同期、後輩でも誰でもいい。俳優や歌手、子役はおろか素人でも構わない。相手がひとりでもいれば、さんまが相手の話を引き出しながら、どんな話題だろうが、それを全部自分の話に持っていき、笑いに変えていく。ボケ・ツッコミも自在。それが、明石家さんまの「雑談」芸だ。

■“戦場”は高座ではなく楽屋だった

「センスよろしいから」

1974年、笑福亭松之助に弟子入りしたさんまは、師匠から「なぜ自分を選んだのか」という問いに不遜にもそう答えた。そんなさんまを松之介はオモロイ奴と懐深く受け入れた。落語家としては実力を発揮しきれずにいたさんまの“戦場”は、楽屋だった。ほぼ同期の島田紳助やオール巨人や先輩の笑福亭鶴瓶らと、どんな面白い雑談をするかが毎日勝負だった。

■「ゆっくり行かせてもらうわ」

やがて、ラジオやテレビに出演し始めると、さんまの才能が一気に開花した。瞬く間に関西では「西の郷ひろみ」などと呼ばれるアイドル的人気を得ることになる。だが、折しも時代は「MANZAIブーム」を迎える。漫才コンビが持て囃され、ピン芸人であるさんまは苦しむことになる。同期の紳助も紳助・竜介として人気絶頂になっていた。

戸部田誠『売れるには理由がある』(太田出版)

けれど、さんまは「どんどん先を走ればええ。俺はお前らが息切れして倒れたとこに、ゆっくり行かせてもらうわ」(常松裕明/幻冬舎『笑う奴ほどよく眠る』より)と冷静だった。

その言葉どおり、「MANZAIブーム」が収束し、アイドル的人気だったコンビたちと入れ替わるようにさんまは、テレビの主役に躍り出ていく。『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)でも、番組開始当初、クレジットも最後に紹介されたさんまだったが、次第に“主役”のひとりとなっていき、1982年10月以降、たけしと並び、最初にクレジットされるようになっていった。

■「まどろむ」の意味がわからなかった

1984年から『笑っていいとも!』(フジテレビ)のレギュラーに起用されたさんまは、タモリとのフリートーク、つまり雑談のコーナーを作ってほしいとスタッフに提案した。放送終了後の後説で交わすフリートークなどで手応えを掴んでいたからだ。

だが、「成立はしても視聴率は取れないだろう」と大反対される。それでもさんまは「テレビの歴史上ないことだからこそやらしてくれ」と譲らなかった。そうして生まれたのが、その後約11年にわたってタイトルを変えながら続いたふたりだけの台本なしの前代未聞の雑談コーナーだったのだ。さんまの脳裏には「雑談を芸にできたら一流や」という師匠の口癖があったに違いない。

このコーナーでさんまはタモリから「この男はまどろむことも知らないし」と言われた。そのとき、さんまは心の中で、「何や? 『まどろむ』って何や?」と頭を巡らせたという(2018年5月26日『さんま&女芸人お泊まり会』フジテレビにて)。さんまの辞書に「まどろむ」なんて言葉はなかったのだ。それくらい、さんまは生き急ぐようにしゃべり続け、芸能界を突っ走り続けてきた。

■「トップランナーの背中が見えているうちは休める」

そんなさんまも一度だけ「まどろむ」ように仕事を仕事量が落ちたことがある。それは80年代末から90年代始めにかけて。ちょうど「オレたちひょうきん族」が終わる前後だ。

たけしやタモリら先輩との関係性で笑いを取る「コバンザメ」キャラから脱却し、自らが“座長”として番組を回す役割への転換期でもあった。それまでトップだったNHKの「好きなタレント調査」で1位から陥落。ほぼ唯一のさんまの“低迷期”ともいえる。

しかし、この低迷は、さんま自身が自らの意思で仕事をセーブしていた側面もあった。なぜなら大竹しのぶと結婚し、家族ができたからだ。家庭優先を自ら選んだのだ。その頃も「トップランナーやと思ってる人の背中が見えてたから安心してた。背中が見えているうちは休める」(前出・『さんま&女芸人お泊まり会』より)と冷静だった。

けれど、1992年に離婚。そこから皮肉にもさんまの“逆襲”が始まった。莫大な借金を背負ったさんまは選択を迫られる。

「自殺するか、しゃべるか」(2014年3月30日「千原ジュニア40歳LIVE」にて)

■ハングリーさが出るところに気持ちを置く

答えは簡単だった。もう「まどろむ」暇も理由もない。「生きてるだけで丸もうけ」というのはあまりにも有名なさんまの座右の銘だ。どんな逆境に立たされても生きていればそれだけでいい、「つらいときでも笑ってられる」そんな心持ちをうたった言葉だろう。

「僕はその時々でハングリーさが出る位置に気持ちを置こうとしてますから、その究極が『生きてるだけで丸もうけ』という言葉に繋がると思う」(太田出版『hon・nin』vol.11より)

それを体現するようにさんまは、どんな番組でも全身を使って汗だくになりながらしゃべり続け、身体を振り乱して「クァーッ」と声をからして笑っている。彼が手を抜いている姿を目にした記憶がない。「笑いは戦場や」という自身の言葉どおり、共演者と、スタッフと、そして視聴者と常に戦っている。

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戸部田 誠(とべた・まこと)
1978年生まれ。ライター。ペンネームは「てれびのスキマ」。『週刊文春』「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』など。

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(ライター 戸部田 誠 写真=時事通信フォト)

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