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学者の「上手な説明」が真実とは限らない

プレジデントオンライン / 2019年6月10日 9時15分

社会学者の上野千鶴子氏(撮影=プレジデント社書籍編集部)

今年4月、東京大学の入学式で社会学者の上野千鶴子氏が述べた祝辞は話題を集めた。そこで上野氏は「女性学」という学問を作り、研究者として社会の不公正と闘ってきたと述べた。なぜ上野氏は学者という「説明屋」に甘んじず、運動家として社会変革を謳ってきたのか。本人に聞いた――。(後編、全2回)

■自己責任論が人々の連帯を阻む

東京大学の入学式の祝辞では、18才の子どもにもわかるやさしい言葉でしゃべるようにつとめましたが、学術用語をひとつだけ使いました。「アスピレーションのクーリングダウン(意欲の冷却効果)」です。東大の女子学生比率は2割の壁を超えません。女性たちは、「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけられ足を引っ張られることでくじかれてしまい、本当にやりたいことを選択できなくなるのです。

もし新入生たちが「がんばれば公正に報われる」と思えているのだとしたら、そう思えること自体が、努力の成果ではなく環境のおかげだということを忘れないでと伝えました。

この祝辞に対して、「東大の女子の割合が2割以下なのは女の子たちが自己選択した結果、受験者が増えないだけなのだから問題ない」といった反応がありました。これは「自己決定・自己責任」の論理です。でも、あの短い祝辞の中に、それに対する反論はちゃんと書いてあるんですけどね。

この数十年で、ネオリベラリズム的な「自己決定・自己責任」のメンタリティが浸透したことを強く感じます。だから、その人の不遇や困難は自己責任であるということになってしまう。自己責任がこれだけ定着して強く内面化されると、困難にある人たち同士で連帯できなくなってしまうんですよ。

■個人的なことは政治的である

自己責任論のメンタリティを内面化してしまうと、「夫や姑とうまくいかない」「子どもが引きこもりになってしまった」といったことが起きても、自分だけの問題、個人で解決しなければいけない問題だと考えるようになります。だから、自らを責めるだけになってしまって、他人に自分の弱みを見せられないし、助けを求めることもできなくなります。

ただでさえ、人に弱みを見せるのは誰だってイヤなものですし、自分の弱さや惨めさを認めることはもっとつらいです。弱者や被差別者同士だって、連帯できるとは限らない。かえってお互いの細かな差異をチェックして差別し合い、つながって連帯することは難しいものです。

「個人的なことは政治的である」というフェミニズムの考えは、今でも真理です。個人の困難だと思って抱えている問題のほとんどは、社会関係のなかで生まれる問題です。「あなた一人の問題じゃないんだよ」と呼びかけることで連帯できるんです。

■女性学は「社会変革」のための学問

具体的には、当事者同士の自助グループを作ることが大事ですね。リブが生まれたころは、コンシャスネスレイジング・グループと言って、女が思いの丈を言い合う場が至るところにできました。「私はこんなことを経験してるんです」って打ち明けると、「私もよ」「ああ、私もよ」って返事がかえってくると、個人だけの問題ではなくなります。どんな種類の問題でも、これが最初の原点です。

この数十年でフェミニズムとともに、自助グループが作られていく動きも広がりました。アルコール依存だって自己責任といえば自己責任ですけれども、自助グループが生まれている。自助グループにもいろいろあって、自己変革だけを目指すグループもあります。フェミニズムは自己変革と社会変革がセットでしたね。

女性学は運動と研究が一体化したものです。アクションなんです。だからこそ、「偏っている」「イデオロギー的だ」などの批判を受けてきたわけですが、これまでの学問だって、「中立・客観」の名の下に、現状維持や既得権を守ってきたジェンダーバイアスのある(男性に偏向した)学問でしょう。女性学は社会変革のための学問、闘う学問です。

■優等生が襲われる不安

「自己決定・自己責任」の内面化について、私が教育の現場で個人的に体感したのは、自分を責めるしかなくなった結果、男女問わず自傷系の学生が増えたということでした。東大生は「勝者」のように見られていますが、勝者って強い不安の中にある人たちなんです。

いい成績をとってくれば、親からは「次も必ずいい成績とっておいで」と言われます。競争はずっと継続していて、つねに勝ち続けなければならない。でも次も100点をとれる保証なんてありません。「次もいい成績を」と親に言われ続けることで、子どもは不安感を強くするけれど、そんなことは他人に言わないですよね。

心理学の用語に、自分の中にある攻撃性が外に向かうことを指す、アクティング・アウトという言葉があります。反対に、自分の内側に向けることはアクティング・インといいます。アクティング・アウトは暴行や非行、犯罪などの逸脱行為です。いじめやハラスメントといった、自分の敵意や攻撃性を外側にあるターゲットに向けることです。

逆に、「自己決定・自己責任」のメンタリティにかられて、自分を責めるほかなく自傷に向かうことは、アクティング・インですよね。そして、アクティング・インの究極は自殺です。東大生の自殺率は以前から、全国の大学平均よりも高いことが知られています。優等生とは、強い不安感を持つ人たちなんです。

■概念を作らなければデータをとることができない

カテゴリー化すること、つまり概念を作ることでしか事実を切り出すことはできません。そして、概念を作ることができなければ、データをとることができません。そして、データをとらなければ、社会で何が起きているのかを示すことはできません。

2000年代に入ってから、日本の貧困問題はしばしば議論されていましたが、政府は長い間貧困率の統計を出しませんでした。日本には貧困はない、と言ってね。政府が貧困率の統計を最初に出したのは、政権交代して民主党政権になってからのことですが、実際に数字が公表されると貧困率は驚くほど高かったのです。

自民党政権では、たとえば首相だった小泉純一郎は国会答弁で「言われているほどの格差はない」などと発言していて、貧困の存在を認めませんでしたし、貧困率の統計も出そうとしませんでした。統計を出さないということ自体が、政治的な操作にほかなりません。

■「カテゴリーの政治」とは何か

また、カテゴリーが変われば統計も変わります。2006年に要介護認定制度が改正された際、それまで「要介護1」とされていたカテゴリーが分割され、「要介護1」とその前段階にある「要支援1&2」というカテゴリーの2つに分けられました。結果、「要介護率」の数値が下がりますが、実際のところは、従来なら「要介護」だったはずなのに、カテゴリーを操作したことで「要支援」に振り分けられた人がいたわけです。

私たちはこういう事柄を指して「カテゴリーの政治」と呼んでいます。政府が「外国人労働者」という言葉を一貫して使い、「移民」という概念を採用しないことだって、ものすごく政治的です。海外から多くの人が移り住んできてとっくに定住しているのに、移民社会になっているという現実を認めないということでしょう。本当に欺瞞的なことだと思います。

移民社会にともなうさまざまな問題はすでに起きています。技能実習生の問題が大きなものですよね。低賃金での長時間労働などが横行している。政府がお膳立てして、業界がそれを利用している。多くの実習生が逃げ出すのも当然です。しかも、政府が出した実習生の失踪に関する統計数字もまた、めちゃくちゃでしたね。

■理論による説明は「現実」ではない

社会に何かが起きると社会学者がコメンテーターに呼ばれたりしますけど、そこで何の役割を果たしているかというと、社会学者は特に何の役にも立ってない。「便利な説明屋」の役割ですね。説明には上手な説明と下手な説明があるだけで、正しい説明と間違った説明があるわけではありません。

もっとも、これは経済学者も同じです。経済学は人文社会科学の中で最もサイエンティフィックだと思われています。人文社会科学の中で最も精緻なモデルを持っている経済学にいわせれば、社会学はアマチュアサイエンス、二流の科学と言われますけれど(笑)。たとえば近代経済学には、マーケットを説明するメカニズムとして非常に精緻な、数理的なモデルができあがっている。しかし、理論による説明というのは現実近似であって現実ではないんです。現実に限りなく近いと想定されるものを、現実に対応する言語で命題化するということ。ですからこれもやはり、上手な説明だけれど正しい説明というわけではありません。

■市場の外にある「カオス」な変数を投げかける

そもそも市場メカニズムを説明する数理モデルというのは、変数をものすごく限定してるからこそ成り立っています。その限定された変数のみの間の相互作用を論理化すると、このように説明できますよというだけです。

田中正人、香月孝史『社会学用語図鑑』(プレジデント社)

その説明は、別の変数を投げ入れればただちに覆ってしまいます。

では、フェミニズムがそこに何を投げかけてきたか。たとえば女性が担わされている不払い労働を変数化することに、経済学は成功していません。出生率の増減も、あまりに多様な変数が関与するために、説明可能なモデルがありません。そういう、経済学のモデルで説明できない変数を問題にして投げかけると、市場を「上手に」説明していたモデルはとたんに崩れてしまいます。市場外の変数に目をつぶっているからこそ、美しいモデルができていたにすぎません。

社会学が、なぜこんなに多様でカオティックなのかといえば、社会学者はありとあらゆる変数をとりこんで問いを立てようとしているからですよ。だって、現実はカオスなんだから。

現実の複雑さを縮減しないで、説明することが社会学には求められているのです。

社会学者のジュディス・バトラーは「セックスはつねにジェンダーである」と言っています。この場合のセックスは「生物学的・科学的性差」、ジェンダーは「人為的性差」を表します。その意味するところを『社会学用語図鑑』ではこのように説明しています。

*『社会学用語図鑑』初版のp239は、上野千鶴子先生のご指摘により若干訂正が加えられました。(画像=『社会学用語辞典』)

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上野 千鶴子(うえの・ちづこ)
社会学者
1948年生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了、コロンビア大学客員教授などを経て、93年東京大学文学部助教授、95年東京大学大学院人文社会系研究科教授。現在、東京大学名誉教授。認定NPO法人WAN理事長。

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(社会学者 上野 千鶴子 インタビュー=田中正人 構成=香月孝史 撮影=プレジデント社書籍編集部)

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