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人間が"超人"を産み出すのは絶対悪なのか

プレジデントオンライン / 2019年5月30日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/vchal)

■デザイナーベビー実現への試みは進んでいる

親となった者たちは、さまざまな機会を通じて、自分の子どもがひとかどの人物になる手助けをしようとする。家庭の中で礼儀作法を身に付けさせようと躾けることはもちろん、栄養管理や宿題の確認、塾への送り迎えだけでなく、交友関係にさえ口を出す親もいる。

幼児教育に躍起になって少しでもわが子を賢くしたいと思う親は、どこにでもいる。わが子に多くの利点を付与したいというのは、親になった者の、ごく一般的な思いだろう。

この親の思いは、教育や社会化を飛び越えて、先端科学の恩恵にあずかることも厭(いと)わないかもしれない。認知的な能力を強化するクスリを用いるだけではなく、遺伝的な改変を行うことにさえも積極的になるかもしれない。より優れた、思い通りの子どもを持ちたいという「デザイナーベビー」への関心は、それを可能にする技術の発展に伴って、ますます高まっていくのではなかろうか。

実際、中国の研究者が遺伝子改良を施した結果、エイズウイルス(HIV)耐性を持った双子の女児が誕生したニュースや、アカゲザルに人間の脳の発達に関わる遺伝子(MCPH1)を組み込み、人間の知性の由来を解き明かそうとする実験など、人間の諸能力を増進(エンハンスメント)しようという試みは、着々と進められている。

■「超人」を産むことへの批判はどこから?

このようなより優れた資質を持つ人間を産み出そうという試みや思想は、一般に「トランスヒューマニズム」と呼ばれている。人間(human)を超える(trans)存在、つまり超人を作り出そうという試みだからだ。

この手の話題は、ともかく批判するのが良識人たる者の作法とでもいうように、自然に反するだとか、人間の尊厳を毀損(きそん)するだとか、そうした理由でダメ出しするのが通例になっている。確かに、こうした「トランスヒューマニズム」を牽引する技術には、まだまだ不確かなことが多くあり、手放しで評価できるものではない。

とはいえ、以下で述べるように、自然や尊厳に訴える批判もまた、手放しで評価できるわけではないのだ。私がここで述べようと思っていることは、より優れた人間を産み出そうという欲求を退けることのできる論理は、そう簡単には見つからないというに過ぎない。

「トランスヒューマニズム」への批判は多岐にわたるので(とはいえ、それらも反論はすでになされているのだが)、今回は、自然や尊厳に訴える典型的な批判に関してのみ考えることにしたい。

■「自然に反する」の“自然”とはなにか

まず、遺伝的な改変は、自然に反するという批判を考えてみよう。私たちはしばしば、「人間も自然の一部である」という言い方をする。これには、自然の一部にしか過ぎない人間が自然をコントロールしようとするのは、身の程をわきまえない所業だという含意がある。

とりわけ遺伝子改良が進化に関する話題に及ぶときには、自然には人間の理解を超えた大いなる目的があるので、それを犯すことは許されないとの主張がある。このような意味での「自然に反する」という批判は、遺伝子改良の現実味が増すにつれ、声高に叫ばれるようになってきた。

けれども、(道徳)哲学の分野では、自然なるものを持ち出すのは、すでにあまりうまいやり方ではないと考える論者もいる。

アメリカの生物学者ギャレット・ハーディンは、「自然とは、人間が自分の意志で決めたことに対して責任を取らなくても済むように人間の心が作り出した空想の産物であって、自然の声は、人間の声である」という。

「自然には、人間の理解を超えた大いなる目的がある」というのは簡単だが、その目的が人間の理解を超えたものであるなら、その目的を人間が知ることは不可能である。また、それを仮に知り得たとしても、人間がその目的に同意すべき理由や、従わねばならない理由はよく分からない。

■神学の視点からも遺伝子改良は「悪」ではない

自然であることは「正常である」ことを意味し、遺伝子改良は、自然には起こらないことを起こすという意味で「不自然」で、したがって「正常ではない」と言うなら、これはさらに問題含みだ。異性愛こそが自然の目的にかなうと考える一方、同性愛を不自然で、正常ではない愛の形だとみなすことが大いに問題であることを思い出せば、このことはすぐに分かる。

いや、そう思うのはお前が無神論者で神を信じていないからだ、と言う人もいるかもしれない。しかし、そう考えても結論はあまり変わらない。それはなぜか。

神学者のテッド・ピーターズは、次のように述べている。

自然を創り出したのが神であり、神だけが唯一絶対だという考えは、遺伝子や生命それ自体すらも、神に対しては二次的な価値しか持たないことを意味する。
そして、神はこの世界を継続的に創造し続けており、被造物たる人間は、その世界創造の一部であるなら、神の意志に沿うものは産み出され、そうでなければ阻まれるはずである。

この言葉に照らすと、遺伝子改良の技術が産み出され、それによって新しい命が生まれたからには、この試みは神の意志に、つまり、自然の目的にかなっているということになる。

このように「自然に反する」という批判は、何かしら道徳的な意味合いを込めて言うにしても、神学的な関心から言うにしても、うまいやり方ではないのだ。

■「尊厳が失われる」という批判は妥当か

では、「人間の尊厳」を毀損するという批判のやり方はどうだろう。ドイツの応用倫理学者ディーター・ビルンバッハーは、この問題について悩ましい議論を展開している。彼の議論を参照しつつ、少し周囲にも広げてみよう。

人間の尊厳には、少なくとも個人に関わるものと、人間という種・類に関わるものの2つの用法がある。前者では、軽蔑や侮辱を受けたとき、自ら行為し決定する自由を奪われる場合、困窮や苦痛によって生活の質(Quality Of Life)が低下する事態などにおいて、尊重させるべき対象が「人間の尊厳」だといえる。

「トランスヒューマニズム」に対する批判は、このような個人に関わる意味での「人間の尊厳」よりも、むしろ、人間という種・類に関わる意味に対してなされることが多い。

というのも、例えば、遺伝的な介入は不可逆的である(元に戻すことができない)から、自ら行為し決定する自由を奪われることになるという批判は、2006年にノーベル医学賞を受賞したアンドリュー・ファイアーとクレイグ・メローの発見によってすでに根拠を失いつつあるからだ。

この発見によって、遺伝子の発現を制御すること、つまり遺伝子のスイッチをONにしたり、OFFにしたりすることが可能になってきたのだ。

この技術の開発が進めば、理論的には、成人してから自分の眼の色を好みの色に変えることもできるようになるというわけだ。

■やり直しがきかないことは日常にあふれている

さらに言えば、仮に遺伝子改良が不可逆的であるとしても、それが問題であるなら、教育ですら問題だという論者もいる。通常、私たちは遺伝子改良と違い、学んだことは後からでも容易に修正したり、取り消したりできると考えている。だから、教育によって能力を増進することは大いに歓迎し、他方で、先端技術を用いた増進には批判的だ。

しかし、ピアノを弾いたり、靴ひもを結んだり、自転車に乗ったりすることを習得すれば、この能力を完全に失うことはできなくなる。母国語を話す能力の場合はもっとはっきりしている。学んだら、もう一度忘れることはとても困難であり、その意味で不可逆的だといえるのだ。

教育の結果の中には不可逆的なものがあり、そうしたものは、自ら行為し決定する自由を奪うゆえに、教育は「人間の尊厳」を毀損する、と主張するとすればどうだろう。そうした主張は、多くの人には受け入れがたいのではないか。つまり、不可逆だというだけでは、批判の根拠として弱いのだ。

また、種・類としての人間の標準状態から見た不足を、人為的に除去したり、補完したりすること(心臓に疾患のある患者に人工心臓を与えたり、聴覚障碍(しょうがい)者に人工内耳を与えたり、小人症患者に成長ホルモンを与えたりすること)は、通常、批判されることはまずないということも考慮に入れる必要がある。

これらは、人工的・人為的であることは確かだが、その結果は、手を加えていないという意味で「自然な」状態や性質の範囲にとどまっている。人間のクローンを作る場合もそうだ。ヒトクローンは、人工的・人為的に作られるが、その結果生まれるクローンは、性質上は「自然な」人間と変わらない。だから、トランスヒューマニズムの熱心な擁護者の中には、ヒトクローンは「保守的だ」と言う者さえいるのだ。

■デザイナーベビーが親の「道具」とされる風潮

このように言うと、次のように反論する人もいるだろう。誰か他人の、通常は親の目的のために、人間(子ども)を産出すること自体が問題なのだと。この種の批判は、他者の目的達成のための道具にされることに対する批判といえる。

けれども、この批判も突き詰めると、難しい問題にぶち当たる。なぜなら、すでに生まれている子どものために妹弟をもうけるため、夫婦以上の家族を持つため、跡継ぎを得るためなど、特定の目的のために子どもをもうけることは、すべからく批判に値することになるからだ。

そうした目的を一切持たずに、子どもをもうけることだけが正しいというのは、できるに任せることであり、それでは「家族計画」という言葉ですら問題含みだということになりかねない。それゆえ、ビルンバッハーによれば、人間の尊厳を毀損するといえるのは、目的が設定されること自体ではなく、生まれる子どもに具体的な「危険」を与える目的や手段に対してだけなのだ。

老化の制御や免疫系の強化、記憶力や認識能力の向上などについては、子どもの将来にとって具体的な「危険」になり得るかどうかを想像するのは、極端な事例を思い付かない限りは、容易なことではないだろう。

以上に付け加えるなら、遺伝子改良への批判のいくつかは、すでに私たちが行っている教育にも十分に当てはまるということだ。遺伝的な介入は不可逆的である(元に戻すことができない)とは最早言えないし、教育の結果は、不可逆な場合もある。

■危険を避けるためなら、「人間」という種を超えてもよい

では、人間という種・類に関わる意味で「人間の尊厳」に抵触すると考えられる場合はどうだろう。これは、人間という種・類の状態や性質の範囲を「超える」という意味だ。「自然な」仕方では決して有さない状態や性質を獲得することが問題とされる。

けれども、ビルンバッハーによれば、この場合でも、それが問題となるのは、人間という種・類の状態や性質の範囲を「超える」ことによって、その人間(子ども)が、具体的な肉体的・精神的な危険に直面する場合だけだという。

「超える」ことが道徳的観点から問題となるのは、それが人工的・人為的で自然に反するからでも、人間の尊厳に反するからでもなく、危険を避けきれないという意味で技術的に力不足である、ということだけだというのである。

危険を避けられるようになるなら、人間という種・類の状態や性質の範囲を「超える」ことも、問題ではないというわけだ。

ビルンバッハーがこのように主張するのは、「人間とは、○○である」という本質を言い表す定義は、歴史的な経験や文化の影響下にあるのであって、その定義自体を正当化または批判の根拠にすることはできないと考えているからだ。ビルンバッハーはこう言っている。

人間の自然本性の「人為的」な改良は、少なくとも、それが自律、個性化、自己制御および社会的責任という理想と衝突しない限りは、許容されると見なさなければならない。

……少なくとも、こうした理想が脅かされないかぎり、生得的または後天的な障害を補助し矯正するために現在開発されている技術的な補助手段を利用して、自然に備わっている程度を超えて能力を向上させることが許されないということはありえないだろう。ましてや、それが人間の尊厳に反するなどということは、ありえないだろう。

■優生学とトランスヒューマニズムの違いとは

このように考えていくと、「トランスヒューマニズム」を、自然や尊厳をもとに批判するのは容易ではないことが分かる。ビルンバッハーのように、条件付きではあるが、人間の自然本性の「人為的」な改良を許容することがどうにも不満だという人は、おそらく、どこかで「優生学」という忌まわしい考えを思い出しているのではないか。かく言う私も、その一人だ。

周知の通り、優生学は、文明社会や人間の発展のために、公権力の主導の下、遺伝子決定論を偏重する形で人間の遺伝形質の改善――優れた遺伝的資質の増大(積極的優生主義)と、劣ったそれの減少・消滅(消極的優性主義)――を図ろうとした思想運動を指す。

この思想運動では、公権力が「善(よ)き生とは何か」を決定する権限を持ち、生殖や生命の犠牲に関わる選択を「強制」する政策が実行された。

こうした優生学と、「トランスヒューマニズム」との相違とは何だろうか。指摘し得る点の一つは、前者とは異なり後者では、諸個人が多元的な価値の中から「自律/主体的」に自分の生(善き生)を選択し得るようになることが目指されていることである。

■遺伝子改良は「胚の選別」とは違う

例えば、応用倫理学者のアラン・ブキャナンは、遺伝子改良に対する障碍(しょうがい)者からの批判、つまり、それは「平等の価値を持つ人格」として尊重される権利を障碍者から奪うものだという批判に対して、こう述べている。

遺伝子改良は、障碍を予防するために「障碍者の存在自体」を予防するものでなく、バリアフリー化と同じ目標である「機会の平等」を目指すものである。

要するに、この主張でむしろ問題とされるべきは、着床前診断をもとに、問題のある胚を除去し、問題のない胚だけを選ぶことの方であるはずだ、ということを意味している。胚の選別は、「障碍者の存在自体」を予防するものだといえるが、遺伝子改良は特定の障碍だけを予防するのであって、「障碍者の存在自体」を予防するものではないというわけだ。

このように言われると、なるほど一理はあると思えてくる。この記事で述べたことは、読者にはどう感じられただろうか。何とはなしの忌避感や嫌悪感を覚える人もいようが、それが頼りにならないことだけは間違いない。

「トランスヒューマニズム」という思想・運動は、それを批判する段階で、私たちが自明視している前提を大いに揺さぶり、再考する機会を与えるものだといえるだろう。

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堀内 進之介(ほりうち・しんのすけ)
政治社会学者
1977年生まれ。博士(社会学)。首都大学東京客員研究員。現代位相研究所・首席研究員ほか。朝日カルチャーセンター講師。専門は、政治社会学・批判的社会理論。近著に『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社新書)がある。

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(政治社会学者 堀内 進之介 写真=iStock.com)

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