なぜ低失業率なのに給料が上がらないのか
プレジデントオンライン / 2019年5月31日 9時15分
※本稿は、井上恵理菜著『本当にわかる世界経済』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。
■失業率は49年ぶりの低水準なのに賃金は伸び悩み
米国の2019年4月の失業率は3.6%と49年ぶりの低水準となりました。一般に、労働市場がひっ迫すると、企業が雇用者を集めるために賃上げを迫られるため、賃金への上昇圧力は強まるといわれています。しかしながら、米国の賃金の上昇は前年比+3%台前半と緩やかなペースにとどまっています。
実際に、米国の失業率と賃金の関係を表わしたフィリップス曲線をみると、2010年以降、下方にシフトしており、失業率が低下しても賃金が上がりにくくなっていることがわかります(図表1)。こうした現象は、米国だけでなく日本や欧州でもみられます。
賃金低迷の原因には、循環的なものと構造的なものとがあります。循環的な要因とは、景気循環によるものです。景気が悪化すれば、企業活動が縮小するので雇用は減少し、賃金にも下押し圧力が加わりますが、景気が回復すれば、賃金の上昇ペースは再び加速することになります。
一方、構造的な要因とは、景気循環とは関係のない要因です。これは、景気が悪化しているか回復しているかに関係なく、労働市場の構造変化によるものですので、景気が回復したとしても、賃金への下押し圧力として作用し続けます。
■金融危機後に長期失業者が大量発生
まず、循環的な要因としては、金融危機の後遺症が挙げられます。欧米諸国では、2008年のリーマンショック後、景気が急速に冷え込み、失業者が急増しました。景気は徐々に回復しましたが、長期間にわたり失業状態にあった人は職能スキルが衰え、新たな職を見つけることがますます困難になります。最終的にそうした人が見つけた職業は、特別なスキルがなくとも働くことができる、比較的低賃金の業種であることが多くなります。
一国全体の賃金上昇率をみる際、低賃金の業種での就業者が増えれば、全体の賃金水準が下押しされ、平均の賃金上昇率も抑制されることになります。すなわち、金融危機の規模が大きく、長期失業者が多く発生したことが、賃金の低迷を長引かせた一因といえます。
■欧州版の「ロストジェネレーション」
金融危機後には多くの人々が職を失いましたが、とりわけ厳しい状況に置かれたのが若年層です。就業経験がない彼らは、就職先を見つけることが大変困難でした。特に欧州では、米国発の金融危機の後、2009年には欧州債務危機も発生し、景気後退が一段と進みました。ユーロ圏では25歳未満の若年層の失業率が2013年に24%に達し、4分の1の若者が失業状態に陥るという悲惨な事態に陥りました(図表2)。
学校卒業後の最初の就職に失敗した人々は、スキルを身につける機会を失い、その後も長期にわたって不安定な雇用形態で働く場合が多くなります。こうした人々は親の住む実家にとどまり、結婚や住居取得などを遅らせざるを得なくなりました。
日本でも「氷河期世代」や「失われた世代(ロストジェネレーション)」と呼ばれる人々がいます。彼らはバブル崩壊直後に学校の卒業を迎え、企業が新卒採用を大幅に削減したために、安定した雇用形態で働くことのできなかった人が多い世代です。現代の欧州の若年層は、日本の「氷河期世代」と同じような状況に置かれているため、欧州版の「ロストジェネレーション」とよぶことができるでしょう。
人は、長らく失業状態にあると、スキルが失われ、労働の質が低下してしまいます。このため、景気悪化がロストジェネレーションを出現させるような後遺症を残すと、当初は循環的な景気の悪化による一時的な賃金の低迷だったものが、労働生産性(一人の労働者が一定の時間内で生産できる量)の低下へと変化し、構造的な賃金上昇率の低迷を引き起こしてしまいます。
■低賃金の業種で雇用者が増加
一般に、景気悪化による失業者の増加は、景気が好転すれば、いつかは解消する循環的な現象です。イタリアやギリシャなどの南欧諸国では、景気低迷が長期化したため、循環的な失業者の高止まりによる賃金低迷が続いています。一方、景気回復が続いている米国では、循環的な要因は剥落しているにもかかわらず、賃金は低迷しています。このことは、景気の変動に関係のない、労働をめぐる構造的な変化が起こっていることを示唆しています。
構造的な変化の一つ目として、産業構造の変化があげられます。機械化やIT化により、それまでは人間が行っていた製造や経理処理など事務の仕事に必要な人員が大幅に減少しています。さらにグローバル化によって、労働集約的な製造業は賃金水準の低い新興国へ移っているため、先進国では総じて製造業従事者が減少傾向にあります。
一方、人口の高齢化によるケア・サービス需要の増加や、消費のサービス化(消費における娯楽などサービス消費の割合の増加)によって、対人サービス業の労働需要は増加しています。
一国全体の賃金上昇率をみる際、低賃金の業種での雇用者が増えれば、平均の賃金上昇率も抑制されることになります。実際に、雇用者の増えているヘルスケアやレジャー・外食、人的管理サービス(人材派遣業を含む)、小売りなどの業種では、相対的に賃金水準が低くなっています(図表3)。他方、情報、金融・保険といった業種では、専門性の高いスキルが必要となるため賃金水準も高いのですが、雇用者はあまり増えていません。
産業構造の変化によって、製造業など中程度の賃金水準での職を失った人は、再就職の際に、スキル不足のためより高い賃金水準の職に就くことができず、より低い賃金水準の職に就かざるを得なくなります。こうして、低賃金業種の雇用者数の割合が高くなると、全体でみた賃金水準は下押しされてしまいます。
■求人はあるのにスキルを持った労働者がいない
加えて、産業構造の変化のスピードが速いため、雇用のミスマッチの問題が深刻化しています。雇用のミスマッチとは、求人はあるにもかかわらず、その職務に必要なスキルを持った人がいないため、求人が埋まらないという問題です。雇用のミスマッチは従来からある問題ですが、近年はIT化等の流れが速く、スキル習得の困難さが増しています。実際に、米国では、雇用のミスマッチを示すベバレッジ曲線が2010年以降、右上にシフトしており、過去と同水準の失業率であっても、欠員率が高くなっています(図表4)。
とりわけ、ITの知識を必要とする情報産業で、求人率が定常的に高水準にありますが、十分な雇用が確保できず、賃金の伸びが高い状態が続いています。結果として、一部の高スキルの人々の賃金が上昇する一方、そのほかの低スキルの人々の賃金が低迷しているため、全体としてみると賃金の上昇率が高まりにくくなっています。
■高齢化も賃金上昇率の抑制に作用
さらに、高齢化も賃金上昇率の抑制に作用しています。高齢者は若年層よりも賃金上昇率が低い傾向にあるため、人口構成の高齢化は全体の賃金上昇率の低下に寄与してしまいます。特に産業構造の変化が速く、新たなスキルを身につけることが重要な現代にあっては、新しいことを柔軟に覚えていく能力の高い若者の割合が減ることで、労働生産性が低下してしまいます。
若者に比べ、高齢者はその後の就労可能期間が短いことや、スキル取得に長時間を要することなどから再教育へのハードルが高くなります。再教育を怠れば労働生産性が低下するので賃金上昇が抑制されることになります。
■賃金の上昇と労働生産性の関係
以上のように、賃金上昇率の低下の背景には、金融危機後の景気循環的な要因に加え、産業構造の変化、雇用のミスマッチ、高齢化などの構造的な要因が挙げられます。
様々な賃金上昇率の低下の構造的な要因をまとめると、労働生産性の問題に行きつきます。労働生産性は、労働者の能力向上や機械設備の性能上昇によって向上します。労働生産性が向上すれば、企業負担を増やすことなく、賃金を上げることができます。つまり、賃金の持続的な上昇には、労働生産性の向上が不可欠といえます。
労働生産性を向上させるためには、産業構造の変化に対して、人々の労働市場での移動のスピードを速める必要があります。個人が新たなスキル習得のために自力で教育や訓練を受けることには困難が伴いますので、そうした取り組みを支援していく、各国・各地域での経済政策が求められます。
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日本総合研究所 研究員
慶應義塾大学経済学部卒業。日本総合研究所に入社後、日本・米国・欧州のマクロ経済分析を担当。公益社団法人日本経済研究センターへの出向を経て、日本総合研究所に帰任。米国経済の現状分析と将来展望に関するレポートを毎月発行し、新聞・雑誌などで米国の経済情勢に関する解説を行っている。
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(日本総合研究所 研究員 井上 恵理菜)
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