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救急救命のプロたちが絶対に使わない言葉

プレジデントオンライン / 2019年6月10日 15時15分

鳥取大学医学部付属病院救命救急センター小児科病棟師長の森輝美さん。「ドクターヘリ」のある病院の屋上にて(撮影=中村 治、以下すべて同じ)

大病院の救命救急センターは、生と死が交差する過酷な現場だ。そこで軽はずみなことは言えない。鳥取大学医学部附属病院の看護師長を務める森輝美氏は「心情的には患者さんの家族に寄り添いたいが、私たちは“一生懸命看護させていただきます”としか言わない」という――。

※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル』の一部を再編集したものです。

■人生を彩る仕事とは

自ら選んだ仕事をどのように捉えるかによって、人生の色合いは大きく変わってくるものだ。それにより、自分の姿が鮮やかに発色することも、くすんでしまうこともあるだろう。もちろん幸せなのは前者である――。

米子市で生まれた、森輝美が看護師を志したのは、ほんの軽い気持ちだったという。

「なんか人のためになりたい、そして将来的に長くやれる仕事、やりがいのある仕事をしたかったんです。それならば医療系かなと。心理療法士とかいろいろと考えたんですけれど、やっぱり看護師だと思ったんです」

高校卒業後、倉吉総合看護専門学校に学び、看護師免許を取得。91年に鳥取大学医学部附属病院(以下とりだい病院と略)に入職している。当時、国立大学病院の職員は国家公務員であり、狭き門だったという。まずは「消化器外科」、そして「循環器内科」「内分泌代謝内科」の病棟を担当した後、「救命救急センター」の立ち上げメンバーに入った。

2004年10月、とりだい病院は厚生労働省および鳥取県から救命救急センターとしての認定を受けている。森は東京都三鷹市にある杏林大学医学部付属病院で3週間の研修を行っている。

■救命救急センターで働く看護師の難しさ

救命救急センターは救急区分の「三次」医療機関に分類される。

「一次」は夜間・休日診療の時間外に比較的症状の軽い患者を診療することを指す。「二次」は、入院治療を必要とする重症患者の医療に対応、入院、中程度の難易度の手術を行う。そして、「三次」―二次救急の範疇(はんちゅう)に収まらない患者を受け入れられる医療機関のことだ。

急性心筋梗塞や外傷、熱傷などの重篤な患者、複数の診療領域にわたる重度の緊急患者を受け入れるため、高度な医療を総合的に提供できる医療体制が必要とされる。

医療体制とは、施設だけではなく、医師、看護師、救急救命士などの“人的資源”も含まれる。

「それまでこの地域には(二次の)救急外来はあったのですが、救命救急センターはありませんでした」

とりだい病院は鳥取県西部地域を中心として、県境を跨いだ島根県東部までの三次救急を24時間受け入れることになった。

救命救急センターの看護師の難しさはなにかと問うと、森は少し考えてこう答えた。

「なにか資格があればいいというのではないんです。大学病院なので各科が揃っている。そこで定期異動して、いろんな科をみられるようになっておく必要はあります。特定看護師、救急認定看護師という資格を取得した人ならば、救命救急センターに来ればより力を発揮できるかもしれません。でも、それ以上に大切なのはやる気」

生半可な気持ちではやれない――きっぱりとした口調で付け加えた。

■心情的に家族に寄り添いたい。しかし

森 輝美(もり・てるみ)/米子看護高等専修学校、倉吉総合看護専門学校を卒業後、1991年に看護部に入職。数々の病棟を経て、2009年に病棟2C(救命救急センター)配属。2015年、同看護師長就任。2019年4月1日より小児科病棟師長を務める。

救命救急センター――通称「ER」はテレビドラマ、コミックなどの舞台にも取り上げられる、病院の“花形”部門でもある。しかし、とても憧れだけではやっていけるものではないです、と森は強調する。

「目の前で重症な患者さん、家族と直面します。運ばれてくるのはみな重度の事故。それが突然であるほど、衝撃は大きい。当然、医師も一刻を争うわけですから、殺気立っている。医師に怒鳴られながら、瞬時に症状を把握して判断、家族のサポートもしなければならない。希望して救命救急センターに来ても、現実と理想のギャップで働けなくなった、という人もいるほどです」

救急車、ドクターカー、ドクターヘリにより救命救急センターに運ばれてくる患者は実に幅広い。90歳を超える高齢者から、0歳児まで――。

搬送された際、付き添った家族の精神的な動揺が特に大きいのは乳児、幼児の場合である。心情的に家族に寄り添いたい。しかし、余計な言葉を口にすることはできない。

「心肺が停まってしまった赤ちゃん、交通事故に遭ってしまった子ども。当然ながら(安心させるために)助かりますとは言えない。ただ、私たちが言えるのは“一生懸命看護させていただきます”の言葉だけなんです」

■東日本大震災直後という「戦場」の経験

森にとって忘れられない現場がある。それは今から8年前のことだ。

2011年3月11日、14時46分に宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロを震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。

東日本大震災である。

地震の規模はマグニチュード9.0、日本周辺における観測史上最大の地震だった。

この日、森は非番だった。DMAT(ディーマット)の有資格者である森の携帯電話に、DMAT本部から鳥取県庁の担当部署を通じて待機要請のメールが入った。

DMATとは、災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team)の頭文字である。大規模災害や多数の傷病者が発生した現場で、48時間以内の超急性期に活動できる専門的な訓練を受けたチームを指す。

15時過ぎ、とりだい病院に集まったDMATのメンバーたちは役割分担を決めている。森は現場に向かう公用車に積む、資機材の確認を任されることになった。17時40分に先発チームが病院を出発。森は20時40分出発の後続チームに加わることになった。

チーム入りは自ら志願したのかと森に問うと、当たり前のことを聞くのだという風な怪訝な顔になった。

「みんな現場に行って、力になりたいんです。そのために資格を取ったり、勉強したりしている。誰を出すかというのは師長の判断です。私の場合、その日の夜勤担当ではなかった。それもあって、私が指名されたんです」

■余震と煙

チームは医師を含めて5人。車は米子自動車道から中国自動車道、そして名神自動車道と高速道路で東に向かっている。途中、ペットボトル飲料、使い捨てカイロ、カロリーメイトなどの携帯用食糧を購入した。仙台医療センターに到着したのは、翌日の16時になっていた。

仙台市は電気、ガス、水道が停まっており、携帯電話も通話規制が掛けられていた。一帯の災害拠点病院である仙台医療センターも、天井の一部が落下、壁が崩れ、受水槽、高架水槽が損傷しており、貯水機能が失われていた。帰宅可能な患者は家に戻し、手術待機患者も一時退院という措置を執り、緊急医療体制が敷かれていた。

森はこう振り返る。

「余震がすごくて、遠くでなにか燃えているのか煙が上がっていたり。身の危険を感じました」

森は、DMATで教わったことを頭の中で念仏のように反芻していた。

――まずは自分の安全、そして現場の安全を確認すること。それからゴー。

この日の18時、森たちとりだい病院チームは近隣の避難所の一つ、仙台市七郷小学校に入っている。

■避難者の診察と回診

七郷小学校は仙台市の東部、若林区にある1873年創立の公立小学校である。

仙台市は震度7を計測。海岸線から約5キロの場所にある七郷小学校の校区は、東部有料道路が壁となり、津波の被害は限定的だった。しかし、隣の荒浜小学校地区は津波の壊滅的な被害を受けていた。

地震の直後から荒浜地区の住民が七郷小学校に避難しており、その数は1500人を超えていた。なかには近隣の老人保健施設の入所者も含まれていた。体育館は、文字通り足の踏み場もない状態で、教室も避難者のために開放していた。

森たちは保健室を救護所として、体調不良者の診察を行い、さらに老人保健施設の入所者たちを中心とした回診も行っている。

前日の夕方には雪が降っており、底冷えがした。電気が通っていないため、石油ストーブが頼みの綱だった。

「現場でホテルなどは取れないです。泊まるところは(避難所として使われていた)体育館の中。床で寝てました。食糧も自分たちのを持って行っていました。現場で活動して、いかに(避難者に迷惑を掛けずに)完結して帰ってくるか。それがDMATの役割ですから」

翌朝6時まで七郷小学校、その後、とりだい病院の先発隊と合流して仙台医療センターで活動を行っている。

森はこの日の18時まで仙台に滞在。米子に戻ったのは14日の深夜1時半のことだった。

■脳裏から離れない一人の女性

仙台では、朝から晩までひたすら動き続けていた記憶しかない。

「疲れは感じなかったですね。元気でした」

アドレナリンが出ていたんでしょうね、と微笑んだ。

一人の女性のことが今も森の脳裏から離れない。

「ほとんどの方が津波の被害に遭われていた方だったので、重症か軽症のどちらかでした。一人のお母さんがショッピングセンターで買い物をしているときに、津波に襲われた」

建物の柱が落下し、彼女に直撃していた。骨盤を骨折する重症だった。

「骨盤骨折は福島県内では治療できないので、自衛隊のC1(輸送機)で転移搬送されました。そのとき、彼女は離ればなれになってしまった小学1年生のお子さんを大丈夫だろうかと、ずっと心配していたんです。実はお子さんは亡くなられていたんですが、伝えていなかった」

その後、彼女は顔見知りが誰もいない、故郷から遠く離れた病院の無機質なベッドで我が子の命が消えたことを知ったことだろう。その姿を想像すると胸が痛んだ。

■「朗らかさ」はあるか

2015年、森は看護師長に昇格している。師長になってから、より自分の仕事に喜びを感じるようになったという。

「管理職になると、自分のことよりもスタッフをどのように育てていくのかという悩みがあります。

どのように理想の救命センターを創るかと常に構想をねり、スタッフとともに目標を成し遂げるための作戦を実行しているときが楽しく、結果がでたときに最もやり甲斐を感じるんです」

森は54人の看護師を束ねていた。大切にしたのは、部下のメンタルコントロールである。過酷な現場では精神のバランスを崩しやすいからだ。一人あたり年に3回ほどの面談を行った。

「だいたい30分ぐらい。長いときは2時間。メンタル、健康面、プライベート面についての話。そしてどういう目標を持って、なんの成果を上げようとしているのか」

救命救急センターのような緊迫した場面で必要なのは、先を読む力であると森は考えている。それには日々の学び、向上心が必要になってくる。

「なぜ患者さんがこんな状態になっているのだろう。なぜ熱が出ているのか。その原因は何か。あるいは呼吸が悪い。身体の中でどういう反応が起こっているのか。ドクターカーなどで運ばれる間のプレ・ホスピタル(応急処置)も大切。そのためには先を読んだ対応が必要。医療に関わることならばなんでも貪欲に吸収する人間でいてほしい」

鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル』

最後に理想の救命救急センターの看護師とは? という質問をしてみた。

「高いスキルをもった上で周囲とコミュニケーションを取れる人、自分の考えをはっきりと言える発信力、プレゼンテーション能力のある人」

一息置いて「あとは笑顔」と言うと弾けるように笑った。文字通り死と隣り合わせの現場であるからこそ、朗らかさが必要なのだ。

今年、4月1日、森は小児科病棟の師長に異動した。すでに彼女にとって新たな挑戦が始まっている。

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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年に独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『維新漂流 中田宏は何を見たのか』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』『真説・長州力 1951-2018』『真説佐山サトル』『ドラガイ』など多数。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。小学3年生から3年間鳥取市に在住し、サッカーに熱中(城北小ジュニアキッカーズ)。今年から鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル』編集長に就任。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太 撮影=中村 治)

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