「ブラック校則」を押し付ける学校の理屈

プレジデントオンライン / 2019年6月27日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/maroke)

学校以外ではみかけない理不尽なルールは「ブラック校則」と呼ばれている。髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定。茶髪の生徒に「地毛証明」を提出させる学校もある。熊本大学教育学部の苫野一徳准教授は「子どもたちを多かれ少なかれ管理せざるを得ない学校システムにおいては、事あるごとにその管理を強化しなければとする関心が増幅されてしまう」と警鐘を鳴らす――。

※本稿は、苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)の一部を再編集したものです。

■「校則をなくせば風紀が乱れる」は本当か

学校にはおよそ市民社会とは縁遠いようなルールがたくさんあります(以下は、学校の長らく続いてきた慣習的なシステムを作り直すことを問題提起するものであって、それぞれの学校や先生を十把一絡げにして批判するものではありませんので、その点どうか誤解のないようお願いします)。

一時期、メディアでも「ブラック校則」が話題になりました。髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定などはかなり一般的なようですが、暑くてもあおいではいけないとか、マフラー禁止とかいった校則もあるそうです。一部の学校では、茶髪の生徒が生まれつき茶髪であるかどうかを確認するため、「地毛証明」を提出させるなどという人権侵害さえまかり通っている始末です(人権侵害という強い言葉を用いるのは、この行為が、日本人〔人間?〕としてのあるべき髪の毛の色を定める選別的発想に基づくものだからです)。

これらの校則は、一体何のためにあるのでしょうか?

多くの場合、ただ長年の慣習が見直されることなく続いてきたのだと思いますが、同時に、その深層には、子どもたちを統制し、管理しやすくするためというシステムの動機が潜んでいるのではないかとわたしは思います。

いや、それは子どもたちの身を守るためなのだ、なんていう声も時折聞きます。マフラーが自転車などにからまったら危ないからとか、服装や頭髪が乱れれば風紀が乱れるからとかいった理由です。

校則をなくせば風紀が乱れるというよくある意見については、実は真逆の実例がいくつもある(※)のですが、百歩譲って、細かな校則は子どもたちの安全を守るためだという言い分を認めたとしましょう。

※たとえば、かつては「荒れた学校」で、教師もそれを力で押さえつける指導をしていたという世田谷区立桜丘中学校は、2010年に校長に就任した西郷孝彦校長が、徐々に校則を全廃、「生徒が三年間楽しく過ごせる学校」を目標に学校づくりを行うことで、今ではいじめが激減、校内暴力も消え、学力も区のトップレベルになりました。ご興味のある方は、インターネット等で調べていただければと思います。

■「何も考えない大人」に育ってしまう

でも、それにもやはり限度があるはずです。

改めて、そもそも学校は何のためにあるのか、そして、ルールは何のためにあるのかを考えたいと思います。

学校は、子どもたちに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台にして、すべての子どもたちが「自由」になるための力を育むためのものです。そしてルールは、すべての人たちが、できるだけ「自由」に生きられるようになるためにつくり合うものです。

右に挙げた校則は、この学校およびルールの本質を、ちゃんと満たしていると言えるでしょうか?

あれをしろ、これをしろ、あれをするな、これをするな。……そう言われ続けて育った子どもたちは、誰かの命令に従うだけの、自分では何も考えない大人に育ってしまうかもしれません。危ないから、と言ってさまざまなことを禁止されてばかりいたら、自ら危険を察知し、回避する経験を積むこともできません。

理不尽なルールを与えられた子どもたちは、もちろん反発もするでしょう。でも、そんな中で長い時間を過ごせば、言葉を選ばず言えば”飼い馴らされ”、とりあえず上から与えられたルールに従っておけば楽、なんていう感性を身につけたりもするかもしれません。他者に対しても、あれをしろ、これをするなとばかり言って、他者の「自由」を認められない大人になってしまうかもしれません。

■「管理」のために校則があるのではないか

ミシェル・フーコーという20世紀フランスの哲学者は、学校は子どもたちを権力に従順にする装置であると言いました。校則、制服、号令、テスト……。あらゆる仕掛けを使って、学校は子どもたちを権力に都合のいい規律に従うよう訓練しているのだと(『監獄の誕生』)。

わたしは総体的にはフーコーの哲学には批判的なのですが、それでもなお、この告発には一定の説得力があるように思います。多くの学校において、まさに校則とは、子どもたちの「自由」を縛り、教師が集団を「管理」しやすくするためのものになってしまっているのです。

でも、それはやっぱり、子どもたちの「自由」を実質化する学校教育の本来の使命から遠く隔たったことと言わざるをえません。

先にも触れたジョン・デューイは、民主主義にとって最も重要なのは、一人ひとりの自由な関心に基づく探究と、自由なコミュニケーションであると言いました。この二つのない社会は、全体主義の社会です。だから学校もまた、これらを土台にしなければならないのだと(『民主主義と教育』)。

■「無言清掃」「無言給食」は健全なのか

でも、今の多くの学校の現状はどうでしょう?

まず自由なコミュニケーションについて言うと、「主体的・対話的で深い学び」が言われるようになった今でさえ、「黙って座って先生の話を聞く」授業は、多くの学校でまだまだ根深く見られます。「無言清掃」や「無言給食」などが行われている学校もたくさんあります。

そんな環境の中で、子どもたちは、コミュニケーションの仕方を十分に学び「相互承認」の感度を育むことができるでしょうか?

何が何でも絶対にダメ、とは言いません。でも、少なくともわたしたちは、たとえば「無言清掃」や「無言給食」が一体何のためになされているのか、子どもたちと共に定期的に問い直す必要があるはずです。

分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。でもそんな理由で、わたしたちは子どもたちのコミュニケーションの機会を奪ってしまってもいいのでしょうか。

目的と手段を、取り違えないようにしたいと思います。学校教育の根本使命は、子どもたちの「自由」とその「相互承認」の感度を育むことです。この目的のために、学校は何をするべきか。何をしないべきか。わたしたちは常にそのように考える必要があるのです。

■子ども同士の「コミュニケーションの時間」は足りない

時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕をつくれるかを考えたいものです。もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。

「無言清掃」は、黙って精神を統一し、自分と向き合う時間、という側面もあるそうです。それはそれでいいでしょう。でも、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの時間を奪ってまで、そのような時間を設ける必要があるのかどうか、わたしたちはやっぱり、定期的に問い直す必要があるのではないかと思います。

「ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーション」。そうわたしは言いました。これについては、「ほんとうかな?」と思われた方もいるかと思います。確かに、学校をのぞいてみると、いたるところから子どもたちの声が聞こえてきます。一見、豊富なコミュニケーションがなされているように思えます。

■関わっているのは「仲良しグループ」だけ

でも、みなさんもちょっと思い出してみてください。学校に行った時、コミュニケーションをとるのは、クラスの中の実はごく一部の友達だけだったのではないでしょうか?

「黙って、座って、先生の話を聞いて、ノートを取る」のが主流で、「協同的な学び」や「探究(プロジェクト)型の学び」がまだ十分になされていない学校では、こうしたことが起こります。友達とコミュニケーションができるのは、休み時間や部活の時間などにかぎられます。「仲よしグループ」だけでそのほとんどを過ごすことになるのは、ある意味では当然のことなのです。

ちなみに、給食や清掃を含む「特別活動」の目標について、新学習指導要領には「多様な他者との協働」が挙げられています。給食については、学校給食法に「明るい社交性及び協同の精神を養う」とあります。無言清掃・無言給食は、少し大げさに言えば、これらに抵触する可能性があるとも言えるかもしれません。

熊本市教育長の遠藤洋路さんは次のように言っています。「新指導要領では、学校活動の前提が『同質の集団』ではなく『多様な他者』であることがより明確になった。無言清掃・無言給食に限らず、学校活動全体が、同質集団を前提とした『無言の圧力』を助長するものになっていないか厳しく見直す必要がある」と(熊本日日新聞2018年12月12日夕刊)。

■「決められたことを、決められた通りに学ぶ」は周回遅れ

デューイの言う、一人ひとりの自由な関心に基づく探究についてはどうでしょう?

日本の学校のカリキュラムは、今なお、「決められたことを、決められた通りに、みんなで同じペースで学ぶ」ものとしてつくられています。多くのヨーロッパの国々が、はっきりと「探究(プロジェクト)型の学び」への方向転換を打ち出しているのに比べると、周回遅れの感があります。

これからの時代に特に重要なのは──ほんとうは何もこれからの時代にかぎった話ではないのですが──自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えを見出していく、そんな豊かな「探究」の経験です(詳細は、拙著『教育の力』講談社現代新書、や『「学校」をつくり直す』河出新書、をご参照いただければ幸いです)。

変化が激しく、かつての正解が正解ではなくなってしまった現代社会において、これは特に大事な経験です。もはや言われ尽くしたことですが、いい学校に行き、いい大学に行き、いい会社に入れば幸せになれるというストーリーは、今ではほとんど崩壊しています。いつ会社がつぶれるか分からないし、いつリストラされてしまうかも分かりません。幸せになるための、決まった道があるわけではないのです。社会も、格差問題やエネルギー問題、テロリズム問題等、人類がこれまでに経験したことのない問題にあふれています。

■「決められたことだけやっていればいい」子どもを育てている

そんな時代にあっては、子どもたちは、これまで正解とされてきたことばかり学ぶのではなく、自分たち自身で問いを立て、そしてそれに答えていく経験を、たっぷり保障される必要があるはずです。

苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)

でも、日本の子どもたちの多くは、今なお出来合いの問いと答えを中心に勉強させられて、そもそも自分で問いを立てるという経験すら十分に保障されていないのが現状です。そんな経験が不足したまま成長した大人が、この市民社会の成熟した成員になれるものか、わたしはちょっと心もとなく思います。

自分で問いを立て、それに答える力が十分育まれないだけではありません。決められたことだけやっていればいい、社会は誰かエラい人たちが動かしてくれたらいい。そんなふうに考える子どもたちを、わたしたちは育ててしまっているかもしれません。

100年以上も前に、デューイは「協同的な学び」や「探究型の学び」を提言し、先述したデューイ・スクールにおいて自ら実践しました。それは何よりもまず、子どもたちのうちに市民社会の担い手としての精神を育んでいくため、つまり、「自由」とその「相互承認」を実質化するためでした。自由なコミュニケーションと自由な探究を通して、学校やクラスを自分たちの手でつくり合っていくこと。それは、「協同」や「探究」の最も基本的な経験にほかなりません。

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苫野 一徳(とまの・いっとく)
熊本大学教育学部准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。主な著書に、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)がある。幼小中「混在」校、軽井沢風越学園の設立に共同発起人として関わっている。

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(熊本大学教育学部准教授 苫野 一徳 写真=iStock.com)

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