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学年とクラスをなくせば不登校は激減する

プレジデントオンライン / 2019年7月9日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Iseo Yang)

なぜ子どもは不登校になるのか。その原因のひとつは、強制的に同年齢の集団をつくる「学年」や「クラス」にある。熊本大学教育学部の苫野一徳准教授は「同年齢の集団をつくるのは学校だけ。社会と同じく年齢が“ごちゃまぜ”の環境なら、不登校も減るはずだ」という――。

※本稿は、苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)の一部を再編集したものです。

■学校を「ごちゃまぜのラーニングセンター」にしたい

わたしは学校を、もっともっと多様性が混ざり合った、いわば“ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていくべきだと考えています。

そもそも市民社会とは、生まれも育ちもモラルも価値観も国籍も宗教も異なった、きわめて多様な人びとからなる社会です。だから学校もまた、本来であれば、できるだけ多様な人たちが出会い、知り合い、多様性を「相互承認」する機会をもっと豊かに整える必要があるはずなのです。

でも、今の多くの学校は、ある意味ではきわめて同質性の高い空間です。

同じ学年の子どもたちだけからなる学級集団を、みなさんは不思議に思ったことはないでしょうか? そんな同年齢集団は、学校のほかにはないんじゃないかと思います。

「自由の相互承認」は、わたしたちがまさに多様な人たちと出会い、知り合うことから始まります。知り合うことがなければ、分かり合うことも、そして認め合うことも当然できないからです。

だから学校も、本来であれば、年齢や世代や障害のあるなしや国籍などを超えて、もっともっと多様な人たちが行き交う場にしていく必要があるはずなのです。

■なぜ学校には「学年」「学級」があるのか

でも、学校は長い間それができませんでした。というのも、近代の学校は、大量の子どもたちに一気にさまざまな知識技能を学ばせる必要があったからです。そのため、学年学級制を採用し、「みんなに同じことを、同じペースで、同じようなやり方で学ばせる」、いわば大量生産型・ベルトコンベヤー式の教育を続けてきたのです。多様な子どもたちが教室にいれば、画一的なカリキュラムを一斉に教えることができなくなってしまうからです。

こうして、学年が分けられ、小学生と中学生が分けられ、中学生と高校生が分けられることになりました。障害のあるなしでも分けられることになりました。学校は、かなり同質性の高い子どもたちからなる集団になったのです。

改めて考えてみると、今、障害を持った多くの人と日常的に交流している中学生が、一体どれだけいるでしょうか。幼児としょっちゅう遊んでいる高校生が、一体どれだけいるでしょうか。現代の社会では、子どもと日常的に交流した経験のない若者が、その後もほとんど子どもと関わることなく親になることだってあるのです。いや、むしろそれが一般的です。わたしたちは、いつしか激しく分断された社会を生きているのです。

■同じ年齢の集団は「同調圧力」が働きやすい

同年齢集団は、どうしても同調圧力が働きやすく、異質な存在を排除しようとする傾向を生み出してしまうものです。その結果、子どもたちは人と違うことを恐れ、空気を読み合うことをいくらか強いられるようになります。

“人と違う”がゆえに学校になじめず、ついには不登校になってしまった子どもたちと、わたしはたくさん出会ってきました。でも彼らの多くは、学校を一歩出ると、実はとても生き生きとできるものです。実はわたしのゼミにも、不登校の中学生や高校生などがよく参加しています。彼女たちは、大学生に引けを取らないくらい、議論に対等に、そして楽しそうに参加しています。

コミュニティが同質であればあるほど、わたしたちは息苦しくなるものです。でも、もし多様性が担保されていたならば、そしてその多様性を必要に応じて行ったり来たりできたなら、自分がより生き生きできる人間関係を見つけることも容易になるに違いないのです。

■学校をさまざまな人が学ぶ「複合施設化」する

そんなわけで、わたしが思い描いている未来の学校の姿は、幼児から小・中学生、高校生、大学生、地域の人やお年寄り、障害者や外国人まで、とにかく多様な人が当たり前のように集い合う、“多様性がごちゃまぜのラーニングセンター”です。学校の複合施設化と言ってもいいでしょう。学校を、子どもたち“だけ”が学ぶ場ではなく、さまざまな人たちが集い学び合う場にしていくのです。そうして、多様な人たちが、必要に応じて、同質性や多様性を行ったり来たりできる環境をつくるのです。

学校は、なぜ子どもたち“だけ”が学ぶ場でなければならないのでしょう? せっかくの学習施設です。必要に応じて多様な人が集い学び合う、相互刺激の場にしてみてはどうでしょう?

そんなことできるわけがない、と思われるかもしれません。

確かに、壁はいくつもあるでしょう。セキュリティの問題は、特に考えなければならない問題です。

でもわたしは、いくつもの理由から、これは20~30年後の未来にはきっと実現する、少なくとも実現させるべき学校の姿だと確信しています。

■地域の人が参加することを文科省は奨励している

理由は大きく二つあります。

一つ目の理由は、前にも言ったように、「みんなで同じことを、同じペースで」の学びが、今や時代に合わなくなっていることに、多くの人が気づいていることです。

カリキュラムは、今後「探究(プロジェクト)」が中心に確実になっていきます。とすれば、その探究が異年齢チームで行われることも十分ありうるでしょう。小学生と中学生と高齢者による、地域の課題解決プロジェクトチームが組まれることだってあるかもしれません。学校は、今よりもっともっと、多様性を自然に包摂できる空間になっていけるはずなのです。

先述したように、学習指導要領は「社会に開かれた教育課程」を謳っています。地域の人たちが学校教育にもっと参画することを、文科省は大いに奨励しているのです。

学校の中に、もっと多様性や流動性を。同質性の高い息苦しい空間を、もっと風通しのいいものにしていきたいものだと思います。

■「1年生と2年生が一緒に学ぶ」学級が増えている

学校が“ごちゃまぜのラーニングセンター”になっていくだろうもう一つの理由は、特に地方で進んでいる、少子化や過疎化に伴う小規模校や学校統廃合の問題です。今、学校統廃合は加速度的に進んでおり、中には何十キロものバス通学をしている子どもたちもいます。現代の学校教育における、最大の問題の一つです。

でもわたしは、まさにこの現状こそが、学校を否応なく“ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていく大きなきっかけになるのではないかと考えています。

小規模校について言えば、今、全国で複式学級が急速に増加しています。1年生と2年生など、異年齢からなる学級のことです。

でもこれは、見方を変えれば、異年齢という多様性の“ごちゃまぜ”がすでに実現した環境だと言うこともできます。

複式学級では、同じ教室内で、異学年の子どもたちを二つに分けて一斉授業をする光景も時折見られます。でもそれはあまりにもったいないことです。ぜひ、これをチャンスに、学びの「個別化」と「協同化」の融合へと舵を切っていきたいものだと思います。異年齢という多様性を活かした、“ゆるやかな協同性”に支えられた個の学びを実現するのです(「個別化」と「協同化」の融合、より正確には、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」とわたしが呼んでいるこれからの学びのあり方については、拙著『教育の力』および『「学校」をつくり直す』をご参照いただければ幸いです)。

そして当然、「プロジェクト」は、時と場合に応じて異年齢からなるプロジェクトチームによって進めることが可能です。小規模校は、多様性が自然な形で混ざり合う条件がすでに整っているのです。

■「大人が学ぶ姿」は子どもたちの刺激になる

次に、学校統廃合の問題について。

これもまた、わたしは学校を”ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていくための大きなきっかけにすることができると考えています。

せっかくの学校を、統廃合してつぶしてしまうのではなく、学びの複合型施設へとリバイバルするのです。そのことによって、学校を子どもたちだけが学ぶ場所ではなく、地域の人、親、学生、幼児など、さまざまな人が集い学び合う、“ごちゃまぜのラーニングセンター”にしていくのです。

先生だって、学校を自分の学びの場として、子どもたちにその姿を大いに見せてあげてほしいと思います。たとえば、国内外の最新の教育事情を学ぶためのプロジェクトチームなんかをつくって、学校で大いに学び合っていただきたいと思います。先生は、子どもたちの「共同探究者」「探究支援者」であると同時に、自らがまさに「探究者」であり続けるのです。

大人が学ぶ姿を見ることは、子どもたちにとって大きな刺激になるはずです。子どもたちや保護者の多くは、先生が研修などで常に学び続けていることをあまり知りません。だったらなおさら、子どもたちの目に触れないところで研修を行うのではなく、むしろ子どもたちがプロジェクトに勤しむその隣で、先生たちもプロジェクトに打ち込んでいるなんていう姿があっても素敵じゃないかとわたしは思います(もちろん、学校では子どもたちの「探究支援者」であることが第一ですが)。

学校は地域づくりの要です。なくなると、地域住民をつなぎ合わせていた力が弱まり、町の活気も失われてしまいます。

■軽井沢に「幼少中」が混ざり合う学校をつくる

だったら、学校を今よりもっと多様な人たちの学びの空間にしてしまってはどうか。わたしはそう考えています。

2020年に仲間と共に開校を予定している幼小中「混在」校、軽井沢風越学園は、文字通り、幼小中が混ざり合う学校として構想しています。「自由」と「自由の相互承認」の実質化を学校づくりの原理とし、「同じから違うへ」と「分けるから混ぜるへ」をコンセプトとした学校です。

それは文字通り、“ごちゃまぜのラーニングセンター”になるでしょう。幼小中の子どもたちだけでなく、保護者や地域の人たちも、それぞれの関心や必要に応じてこの学校に関わり学び合う、そんな学校にしたいと考えています。

軽井沢と言うと、お金持ちの別荘地のイメージがありますので、時々裕福な家庭の子どもたちのための私立学校と誤解されてしまうのですが、わたしたちが目指しているのはそのような学校ではありません。あくまでも、地元の子どもたちのための「地域と共にある学校」です。寮などもつくりません。

ほんとうは公立学校をつくりたかったのですが、義務教育段階においては公設民営の公立学校の設置が法律で認められていないため、ひとまず私立学校の形を取りました。でも、経済的な理由で入学できないような子どもがいないよう、今さまざまな方策を練っているところです。

■公教育制度は「150年程度」の歴史しかない

苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)

とまれ、来るべき市民教育の本質は、単に道徳教育や市民教育の“授業”をするだけでなく、学校それ自体を、多様な人たちが知り合い、交流し、そして「相互承認」の感度を育み合っていく場としてつくっていくことにあるとわたしは考えています。

繰り返しますが、これは決して突飛なアイデアではありません。今の常識に、あまりとらわれないようにしたいと思います。わたしたちが今知っている学校の姿は、歴史的、また世界的に見てもきわめてローカルなものです。そもそも公教育制度自体が、整備されてからせいぜい150年の歴史しかないものなのです。時代と共にその姿が大きく変わっていくのは、ある意味で当然のことです。

上に述べたことは、何十年後かの、ごく一般的な学校の姿になっているかもしれません。いや、そのような姿へと、わたしたちは学校を向かわせていく必要がある。わたしはそう考えています。

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苫野 一徳(とまの・いっとく)
熊本大学教育学部准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。主な著書に、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)がある。幼小中「混在」校、軽井沢風越学園の設立に共同発起人として関わっている。

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(熊本大学教育学部准教授 苫野 一徳 写真=iStock.com)

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