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現代人は"迷惑"をかけるのが下手になった

プレジデントオンライン / 2019年7月11日 15時15分

落語家の立川談慶氏

迷惑をかけることは悪いことなのか。落語家の立川談慶氏は「日本人は迷惑をかけるのが下手になった。その結果が、昨今の高齢ドライバーの交通事故や幼児虐待だ。筋トレで自分の限界を知ることが必要だ」という――。

■迷惑をかけたくないから、文明は発展してきた

いやはや、「高齢ドライバーによる交通事故」が相次いでいます。医療の進歩と各種保険システムの整備により、「人生100年」などと言われる長寿を獲得した結果、かような出来事に帰結するとはご先祖様たちは想像しなかったはずです。

無論、すべての高齢ドライバーが事故を起こしているわけではありません。そして、事故の原因だって1つではありません。とある方は、「高齢者でも運転しやすくなった車のせいだ」などと言っていましたが、確かにそれは非常に皮肉な一因かもしれません。文明の躍進は善のはずなのに、それがマイナスをもたらすとしたらワットもエジソンも泣いてしまうでしょう。

ここで、1つの仮説を述べてみたいと思います。高齢者の交通事故、いや、それだけではなく近頃話題となっている幼児虐待然り、引きこもりの子供が被害者になった事件然り、すべての原因は「現代の日本人が迷惑をかけるのが下手になったから」ではないでしょうか。

文明は、一言でいえば「迷惑の緩和化」を原動力として躍進してここまで発展してきました。たとえば動力となるエンジンは「時間に遅れる」という迷惑を解消するために開発されたと言えますし、各種通信手段もやはり「連絡が遅れると迷惑だ」という考え方をベースに進化してきました。いわば我々は、「人様に迷惑をかけない」ことを共通認識に、文明を充実させてきたのです。

■なんでも自分でやろうと思うな!

少なくとも20世紀までは、「迷惑」を唾棄(だき)することが約束事項だったと言っても過言ではないと私は考えています。わが師匠・立川談志は、「すべての行動の原理は不快感の解消だ」と定義しましたが、なるほど迷惑とは不快感そのものであります。

翻って、先に挙げた現代の病理について考えてみましょう。「高齢ドライバーの交通事故」という捉え方ではなく、「高齢になっても運転せざるを得ない社会環境」という具合に俯瞰で見つめてみるのです。

すると、「年を取って足腰が弱くなったからといって、人様に迷惑をかけてはいけない。病院ぐらい自分で運転して行かなければ」という意識がその前提になるはず。そうした意識がエスカレートした結果が、大惨事をもたらすと言ってもいいでしょう。

「幼児虐待」にしても「引きこもりの息子が被害者となる事件」にしても、「子育てで人様に迷惑をかけてはいけない。自分でなんとかしなければ」という考え方が強くなり過ぎた結果、ストレスが募ってあのような悲劇を招いたとも言えましょう。

「迷惑をかけてはいけない」という価値観に凝り固まった挙句、結果として「もっと大きな迷惑をかけてしまっている」というパラドックスが引き起こされているわけです。

■つまり、筋トレが足りていない

ここで私は、極論的に「だからどんどん人様に迷惑をかけよう」などと言いたいのではありません。20世紀が「迷惑をかけないシステム作り」を目指して発展したのならば、21世紀に求められるのは「他人の迷惑を上手にシェアできる社会」かもしれないと、未来の可能性を述べたいだけであります。

では、どんな展開になれば、そのような許容社会が実現するのでしょうか?

私は自分の限界を悟ることが肝心と考えます。

「このラインを越えたら自分はダメだ」という限界を察知すれば、その臨界点を超える前にSOSを発信し、窮地は救われます。具体的に言えば、自分の酒量を日頃からチェックしている人ならば、「これ以上飲んだら吐いてしまう」ということを分かっているため、飲み過ぎて居酒屋で戻してしまうような失態はまずないはずです(あの後片付けは迷惑以外の何物でもありませんもの)。

卑近な例を挙げましたが、かような臨界点の認識にうってつけのスポーツがあります。それこそまさに「筋トレ」であります。

■「ヤバいよヤバいよ」という声が聞こえるか

筋トレとは、「毎回限界と向き合う」ことにほかなりません。デッドリフト160キロがマックスの私は、170キロを挙げようとすると腰が悲鳴を上げはじめます。その悲鳴に耳を傾けてみると、「待ってくれ、お前は体重69キロだろ? お前の体重より100キロも重いもの、普通に考えて挙げられるわけねえだろ。ヤバいよヤバいよ」と芸人・出川哲郎さんみたいな声が聞こえてくるのです。

実際にこれまで、無茶な重さに挑戦して2回ほどぎっくり腰をやってしまった経験があるので、こうした内なる声にはかなり敏感になっています。

限界を知るということは、「足るを知る」ことにもつながります。限界点は最高点でもあるからです。たとえばベンチプレスの場合、私の限界は120キロですから、それ以上の重さに挑むときには、トレーナーやジム仲間に補助をお願いするようにしています。

ベンチプレスを無理な重量で行うと、のど元にバーベルが落下することになり、最悪の場合は死に至ります。自分も筋トレをはじめたばかりの頃、60キロバーベルを挙げられなくなってしまい、近くにいる年配の方に助けを求めたことがありました。

すると、その方は片手で楽々と60キロのバーベルを挙げてしまい驚いたものです。それはさておき、これこそまさに、限界を察して素直にSOSを発したからこそ、大きな迷惑を未然に防ぐことができた好例だったと言えるでしょう。

■宗教的な儀式としての筋トレ

話を元に戻します。冒頭に挙げた事件の数々についても、「もうダメだ、誰かに頼ろう」というメタ認知が働けば、他人に頼むなり、公的機関に助けを求めるなりして事前に防げたのではないかと私は思うのです。

そう、「これ以上はヤバい」という感覚を毎日磨かざるを得ないのが筋トレなのです。こうしたある意味で命がけのトレーニングを12年間も行っていると、筋トレは実は、スポーツではないのではないかとさえ感じてしまいます。

スポーツは本来、他者と優劣を争うことが目的です。個人競技なら個人、団体競技なら相手チーム、さらに場合によっては国家同士が、1点でも多く点を稼ぐことを目指します。あるいは格闘技系なら相手を打ち倒すかと、他人と競り合い優劣を決めるのが基本です。

これに対して筋トレは、筋肥大を目指すにしても、挙げられる重量のアップを目指すにしても、あくまでも自分にベクトルを向けたトレーニングです。極論すれば、筋トレとは他者との比較を目指すものではなく、「自分との闘い」に集約させていく宗教的範疇に属するものではないかとすら妄想してしまいます。

パワーリフティングのような種目ならば、相手より1グラムでも重いものを挙げることを目標とします。しかし、それですら「体重100キロの人がベンチプレス100キロ挙げた場合と、体重60キロの人が同じように100キロ挙げた場合」とでは、優劣の基準が微妙に変わってくるものです。

また、同じ筋肥大を比較するような大会でも、体重やら年齢などからの観点で評価の軸を変えるアローワンスを適用しています。つまり、他者ではなく限りなく“対自分”にフォーカスするスポーツが筋トレなのです。

■争いのない「ユートピア」はこうして完成する

ここで重要なのは、自分の限界を知れば、他人の限界をも予想できるようになるということです。

立川談慶『デキる人はゲンを担ぐ(100万人の教科書)』(神宮館)

実際、筋トレに打ち込んでいる人は、ベンチプレスで追い込んでいる人を見れば、「これは補助しなきゃヤバい」という状況がすぐに分かります。これこそ、昔からよく言われる「困ったときはお互い様」という言葉に言い表される、「迷惑のシェア」なのです。

さらに、こうした自然発生的なコミュニケーションを積み重ねていくと、どうなるでしょうか? そこに見えてくるのは、きっと争いのないユートピアではないかと私は思います。あるいは、そんな大層な世界平和を目指さなくても、自分の限界を知ることで他人に優しくなれるなら、筋トレに取り組む価値はあるはず。

自らの限界に触れ、そしてその限界をさらに超えようと体のみならず心も鍛えられるこのスポーツ、ぜひお勧めします。

(落語家 立川 談慶)

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