日本唯一のママ騎手が子持ち復帰した理由

プレジデントオンライン / 2019年7月20日 11時15分

宮下 瞳●1977年鹿児島県生まれ。95年に騎手免許を取得、名古屋競馬場で初騎乗。2005年に日本の女性騎手最多勝記録を更新(通算351勝)。11年に引退したが、16年に騎手として復帰した。

女性最多の勝ち数をあげ、「もう思い残すことはない」と引退。競馬を完全に離れ、母として生きていくことを選んだ宮下さん。そんな彼女に、復帰を決意させた出来事とは――。

■引退後に返り咲いた、日本で唯一のママジョッキー

その日、最後の騎乗となった第9レースを終えると、宮下瞳さんは早々にシャワーを浴びて名古屋競馬場を出ていった。帰宅後、車で向かったのは、4歳の次男が待つ保育園。さらに小学1年生の長男を預け先の児童館で出迎える。競馬場では勝負師らしい鋭さがありありと宿っていた表情が、息子たちと手をつないで帰宅する頃には、別人のように和らいでいた。

「レースに出た日は、長男から必ず『今日は勝った?』って聞かれるんです。勝った日は『やったー! おめでとう』。ダメだった日も『また明日がんばればいいじゃん』と励ましてくれます(笑)」

競馬場から車で30分。宮下さんの住まいは名古屋競馬場の関係者が暮らす団地で、競走馬を飼育している厩舎(きゅうしゃ)と、馬の訓練を行うトレーニングセンター(通称「トレセン」)と同じ敷地内にある。

早朝から馬を調教するのが騎手の日課だが、彼女は子育ても同時にこなさなくてはならない。早いときは午前2時前から馬に乗るが、5分でも時間が空けば、子どもたちの様子を見に戻る。調教を終えたら、子どもを保育園と学校に送り、競馬場行きのバスに飛び乗る。まさに分刻みのスケジュールだ。

夫の小山(おやま)信行さんも以前は騎手として活躍していたが、引退後は厩務員として韓国で働いているため、育児のサポートは近所に住む“おばあちゃん”が頼りだという。

「親戚とかではなく、近所に住んでいる厩務員さんのお母さんなんです。朝ごはんを毎朝子どもたちに食べさせてくれる間は、私は攻め馬(調教)に集中できる。本当に助かっています」

■「いいんじゃない?」夫の後押しで復帰を決意

宮下さんの騎手デビューは1995年、18歳のときだ。祖父が飼っていたポニーが大好きで、子どもの頃から「馬に関わる仕事がしたい」と夢見てきた。兄の康一さんが名古屋競馬場の騎手になると、その後を追うようにこの仕事に就いた。

「当時、名古屋競馬場の女性騎手は私1人。でも、兄がいてくれたおかげで、先輩たちにはかわいがってもらいました」

デビュー後、約10年間で通算600勝を超える成績を上げ、韓国の釜山競馬場での騎乗経験も持つ。2011年に1度引退し、育児に専念していたが、16年、再び地方競馬の騎手免許を取得して復帰を遂げた。

現在、通算700を超える勝利数は、全国の女性騎手の中では最多。出産後に復帰した女性騎手も、宮下さんのほかにはいない。

彼女を再びレースの場に駆り立てたのは、当時3歳だった長男だ。「自宅にあった私の騎手時代の写真を見て、『これ、誰?』と聞いてきて。『ママだよ』と答えたら、『僕も見てみたい!』って」

もう1度、騎手として馬に乗りたい――。それは、2人の子を持つ母親として、口にしてはいけないと抑え込んできた感情だった。

「引退後は母親として頑張るんだと切り替えて、子どもたちにも騎手をしていたことは1度も話していませんでした。でも、息子の一言を聞いて、ああ、私はやっぱりもっと馬に乗りたいんだなって」

だが復帰の意向を周囲に話したところ、「もう子どももいるんだから……」と反対する声が圧倒的に多かった。かつて活躍した女性騎手たちもみな、結婚・出産後には完全に引退している。弱気になりかけていた彼女を救ったのは、当時、すでに韓国に赴任していた夫・信行さんだった。

「別に、いいんじゃないの?」

電話越しに聞こえてきた、意外なほどあっさりしたその言葉で、スイッチが入った。

■若い頃は、自分が勝つことしか考えていなかった

「騎手免許の試験を受ける前、リハビリを兼ねて厩務員の仕事を1年間経験したんです。そのおかげで、競馬との向き合い方が変わりました」と彼女は続ける。

「若い頃は、自分が勝つことしか考えていなかったんです。女性騎手はよくも悪くも目立つ存在。負けが続くと、『だから女の騎手はダメなんだ』と評判が下がったり、『もう彼女は(自分の馬には)乗せないでくれ』と馬主から告げられることもありました」

そうならないよう、誰よりも早く起き、一頭でも多くの馬を調教し、所属する厩舎の調教師からの信頼を得るように努めた。そして、レースで結果を出すことだけを考えて、突っ走ってきたのだという。

だが、競走馬がレースに出走するまでには、調教師や厩務員の日々の仕事があり、それぞれの馬にはオーナーの思いも込められている。

「最後に騎乗する自分がしっかりしなければ、と意識するようになってから、馬のコンディションには今まで以上に気を付けるようになりましたね。レースの展開を予測して、必要以上に強引に前に出たり、馬に無理をさせたりもしなくなりました」

■「かっこいいママ」を子どもに見せたい

最近、自宅のパソコンで出場したレースの動画を子どもと一緒に見ていると、次男が紫に桃色のラインの入った勝負服を見つけて、「これ、ママだよね」と指さすようになった。

「騎手にはけがが付き物ですし、年齢的なことを考えたら、いつまでこの仕事を続けられるか……。でも、一日でも長く続けて、子どもたちに、『かっこいいママ』を見せられたらと思います」

(プレジデント ウーマン編集部 撮影=伊藤菜々子)

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