西葛西にインド人が集中する歴史的な理由

プレジデントオンライン / 2019年7月19日 9時15分

チャンドラニさんが扱う豊富な紅茶のラインナップ(撮影=室橋裕和)

東京都江戸川区の西葛西駅の周辺には、在日インド人が集中して住んでいる。その様子は「リトル・インディア」と呼ばれるほどだが、なぜ西葛西だったのか。リトル・インディアの父は「1998年くらいまで、西葛西に暮らすインド人は4世帯だけでした」と振り返る――。

※本稿は、室橋裕和『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■「インド紅茶」を日本人に売り込んでいった

「リトル・インディアの父」こと、ジャグモハン・チャンドラニ氏が来日したのは、1978年だった。

野望は、日本でのインド紅茶の普及だった。

「当時から日本でも紅茶は飲まれていましたよ。でもイギリスの大手の品ばかりでした」

イギリスが植民地時代、インドの山岳部に茶のプランテーションを建設したことはよく知られた話だ。生産された茶葉はイギリスに持ち去られ、インド人が味わうことはなかったという。しかし独立後、茶は新生インドの主力商品として経済を支える存在へと成長していく。ダージリン、アッサム、ニルギリといった品種が世界的に注目されるようになる。

だが、日本に入ってくるのは遅かった。国内産業の保護を目的として、日本は紅茶の輸入を制限していたのだ。これが自由化されたのは1971年になってから。

「ようやく日本にも輸入できる時代が来ていました。なら、紅茶をやろう、と」

しかしそのとき、日本人は「紅茶といえばイギリス」というイメージしか持っていなかった。まず足がかりに、とさまざまなホテルに営業をかけたが、リプトン、トワイニング……どこも同じイギリス企業の紅茶を使っているのだった。

「で、あるなら、うちの紅茶をどう差別化して売り込むか。そう考えたんです」

チャンドラニさんは紅茶だけでなく、カフェやレストランそのものをプロデュースするアイデアを思いついた。紅茶に合った食器、テーブルクロスから、サーブの仕方まで提案した。豊富な茶葉を使って、どんな紅茶が日本人に好まれるのかアレンジしてアドバイスもした。

「そのうちに、じゃあ試してみようか、というところも出てくる。インドの紅茶は確かにおいしい、と認めてくれる日本人も増えてきたんです。これはイギリスのものとは違う、と」

少しずつ、確実に、紅茶の輸入量は増えていった。

■「西葛西駅」が建設される計画を知った

紅茶貿易が軌道に乗ってくると、どうしても必要なものが出てきた。倉庫だ。

都内各地を見て回った。しかし、なかなか「これ!」という場所が見つからない。

「ビジネスの中心は、大手町や茅場町、日本橋といったあたりでした。だから東西線の沿線だと都合がいい。そう思って調べていたんです」

そしてチャンドラニさんは、江戸川区の湾岸地帯に新しい駅ができることを聞いた。

「荒川を渡った葛西駅の手前です。ほとんど更地でしたよ。インド人どころか日本人だっていない。わずかな農家ではレンコンや小松菜を栽培していましたね。それから沿岸部では海苔の養殖」

チャンドラニさんにそう言われてはじめて知ったが、葛西にはかの「白子のり」の本社がある。海苔の養殖で有名な場所……つまり海だったのである。

戦後までは島が点在していたらしい。陸地部分も湿地帯が広がり、水害が絶えなかったという。ようやく開発がはじまったのは、実は近年のこと。1972年から着手された葛西沖開発事業によって、海の埋め立てが進んだ。いまではすっかり行楽地として定着した葛西臨海公園も、この計画に沿って建設されている。

フロンティアともいえるこのエリアには、京葉線や湾岸道路などの交通網が延びていく。東京臨海エリアが大きく動き出したのだ。その一環として、東西線に新しく西葛西駅が建設されることになった。

■90年代後半まで西葛西のインド人は4世帯程度だった

「駅のほかに、倉庫群とトラックターミナルもつくられることになったんです。ここだ! と思いました。会社の倉庫を西葛西に決めて、引っ越してきました」

記念すべき「西葛西リトル・インディア」その第一歩が記されたのだった。

とはいえ、それから20年ほどの間、西葛西は外国人にはほとんど縁のない場所であり続けた。

「1998年くらいまで、西葛西に暮らすインド人は4世帯だけでした」

ビジネスは順調だった。1981年には「シャンティ紅茶」を設立し、ホテルやカフェ、レストラン、大手デパートなど多数の顧客を抱えるまでに成長、インド紅茶を代表するブランドとなっていた。しかし在日インド人はチャンドラニさんのような貿易関連か、レストラン経営のほかにそう増えることもなく、日本の世は高度経済成長期からバブルを経て、低成長の時代に入っていった。ノストラダムスの大予言に沸く1999年のあたりのことだ。

「あれ? いまのインド人?」

西葛西の街を歩いていると、そう思って振り返ることが妙に多くなってきたのだという。

「3日ごとに新しい顔を見る、ってくらいインド人が増えたんですよ。明らかに、目に見えて。いったいあの人たち、なんの仕事をしてるんだろうってワイフとも話していたんですが、次々と西葛西にインド人らしい人がやってくる。そこで、ちょっと声をかけてみようか、と」

■インド人が集まった理由は「2000年問題」だった

西葛西の道をゆく見知らぬ同胞に話しかけてみた。この街にはずいぶんとインド人がいますが、どうしてここに? 一度みんなで顔を合わせませんか……?

「びっくりしました。30人以上が集まったんです」

聞けば、そのすべてがIT関係の仕事をしていた。

あの「2000年問題」のため、日本企業がインドから呼び寄せた技術者たちだった。

世紀の変わり目を目前としたミレニアムの年。2000年になったその瞬間、世界中のコンピュータが誤作動するのではないかといわれた。

20世紀末のその当時、コンピュータは西暦の下二桁でデータを処理していたのだ。1997年なら入力される数字は「97」だった。2000年は「00」となる。これをコンピュータは「1900年」と誤認し、そのためにさまざまなシステムが動かなくなるのでは……という憶測が流れ、世紀末のアヤしい雰囲気もあって、一種の社会不安となった。いまとなっては笑い話だが、水道やら医療機器がストップするのではないか、証券取引所が大混乱するのではないか、果ては核ミサイルが誤発射されるかもしれない! というトンデモ話までが囁かれ、日本中の企業がコンピュータシステムの改変に追われた。が、人手がまったく足りない。そこでIT大国として頭角を現しつつあったインドから、技術者がどんどん派遣されてきたというわけだった。

■「住むところ」に困ったインドの技術者たち

「彼らが働いていたところは官公庁や銀行、大手企業が集中するエリアでした。そこに東西線で通いやすい、西葛西あたりのマンションに臨時の住居を与えられて、暮らしはじめたというわけなんです」

チャンドラニさんが倉庫の場所を決めた理由とほとんど同じである。インド人も東京での通勤の利便性を考える中で、湾岸・西葛西へと流れていったのだ。

「みんな生活に困っていました。とくに住むところです」

日本の会社が借り上げてくれればいいが、そうでない人もいた。自分で住居を探さなくてはならない。ほかのインド人技術者を追うように西葛西まで来たものの、住居の契約を断られて途方に暮れている人もいたのだ。まだまだ外国人の少ない時代である。日本の不動産屋は「ヨソモノ」を警戒した。本当にちゃんと家賃が払えるのか。日本の会社からしっかり給料をもらっていると証明できるのか。言葉や習慣も違う……。

どうにか手助けができればと、「先住民」であるチャンドラニさんは新参IT技術者たちと不動産屋をまわった。すでにほぼ独学で日本語をマスターし、日本の文化や習慣の中で生きてきたチャンドラニさんである。地域に信用されていたのだ。家賃の支払いに支障のない給料をもらっていることの証明など、いくつもの書類を用意し、まあチャンドラニさんがそこまで言うなら……と、まとまりかけたとき、また問題が起こる。

「保証人はどうする、って話になったんです」

■「ワイフにナイショ」で保証人になった

困った。そう言われても、来日したばかりのインド人に日本での身分を証する人などいるわけもない。URの管理する賃貸住宅だってまだ整備されていなかった。

「保証人を立てなかったら、ここまで進めてきた契約がパーになる。だいぶ悩んだんですが、私が保証人になることにしました。ワイフにはナイショです」

あとで知った奥さんには、さんざん厳しく叱られたという。それでもチャンドラニさんを保証人として日本で働きはじめたIT技術者たちは、誰ひとりとして支払いなどのトラブルを起こすこともなく、西葛西に根を下ろしていったのだ。

「じゃあ次は料理だと。昼間はみんな都心で働いています。いまほどではないけれど、都心には少ないながらもインド料理屋がありました。でも西葛西に戻ってくると、何もなかった。とくにベジタリアンの人が困ったんですね。だったらみんなで調理しようとエキサイトしたんですが、やっぱり素人ですよね。うまくいかない」

だったらインドからプロを呼んで、もう食堂をつくっちゃえ! と思いきった。西葛西駅から北西に歩いて5分ほどの場所にあった和食の店が店じまいすることになったと聞いて、居抜きで借り上げた。そこで簡単なインド料理を安価で出すことにしたのだ。

「店名もなかった。でもこれが、隅田川から東では、日本初のインド料理店なんです」

チャンドラニさんは胸を張る。いまや日本人にも大人気となっている『スパイスマジック・カルカッタ本店』の前身となった店である。

■食材店、インドのテレビ番組……生活基盤を整備した

「2000年問題」は結局、トラブルも混乱もないままに過ぎ去った。もともと杞憂だったとも、技術者たちの奮闘が実ったともいわれる。ただインドの人材とその技術が、日本で信用されるきっかけになったことは間違いないようだった。2000年問題のためだけの短期契約だったはずが、働きぶりを見た日本企業から新規の案件が次々と持ち込まれたのだ。

「西葛西に住むインド人が増えたとはいえ、あくまで出張ベースでした。みんな単身赴任です。それが2000年問題以降は、長期での契約に切り替わって働く人が多くなった。そうすると、家族を呼び寄せて、腰を据えて西葛西で生活するようになっていく」

日本にやってきた奥さんは、まずマユをひそめたそうだ。

「あんた毎日毎日、外食なの?」

そこで次にチャンドラニさんがつくった生活インフラは、食材店だった。スパイスをはじめさまざまなインドの食材を提供した。奥さまたちが腕を振るうようになる。インドの家庭の温もりが、西葛西にもやってきたのだ。

それからは怒濤のようにインド人の生活基盤を整備していく。ダンナが働いている間さみしい思いをして待っている奥さんのためにと、インドのテレビ番組を引っ張ってきた。香港で放映されている電波を日本に届ける仕組みを築いたのだ。このときは在住者たちの技術力が大いに役立ったという。

■学校も祈りの場も作り「在日インド人の父」となった

子供のための学校だって必要だ。日本人が世界各国で日本人学校を開いているように、チャンドラニさんも西葛西にインド人学校を建設する。ヒンドゥー語と英語での教育をする、日本初のインド人学校だった。

祈りの場もいるだろう。ヒンドゥー教の寺院が、西葛西の北に位置する都営新宿線・船堀駅のそばに設けられた。毎日礼拝が行われているが、とくに日曜はたくさんのインド人で混み合う。地域にもオープンで見学もできる。

チャンドラニさんが中心となってつくりあげてきたコミュニティを頼って、その後もインド人は西葛西に増えていった。レストランや食材店もさらに進出してくる。そして、「“ディワリー”ができないか」という声も高まった。ヒンドゥー教の新年を祝うお祭りのことだ。本国では盛大に行われ、街中で花火や爆竹が鳴り響き、「光の祭典」とも呼ばれている。

「そこで区民会館を借りてお祭りをすることにしたんです。いちばんはじめの年に参加したのは30人ほど。ですが3年後には300人にまで増えたんです」

やがてお祭りは西葛西を代表する巨大イベントへと成長していく。いまでは「東京ディワリフェスタ」と呼ばれ、インド人だけでなく日本人も合わせて5000人以上を集客する。2018年で19回目を数え、毎年10月の西葛西の風物詩にまで定着した。インド料理や雑貨の屋台が並び、伝統舞踊やアートなど、インド文化の体験も楽しめる。

その舞台であいさつをするチャンドラニさんは、いつしか「在日インド人の父」と尊敬を集めるようになっていった。

■西葛西での暮らしにほとんど不都合はなくなった

現在、チャンドラニさんは「江戸川インド人会」の会長も務める。

「江戸川区にできたからそういう名前なだけで、誰でも入れるんですよ。フェイスブックなどネット中心で運営されています」

会のページには、日本に暮らすインド人からさまざまな質問が寄せられる。どこか評判のいい日本語学校はないか。子供が熱を出したのだが英語の通じる病院はどこか。インドから家族が来るのだが、どこかおすすめの観光スポットを教えてほしい。帰国するので誰か冷蔵庫を引き取らないか……それは生活そのものだ。話に心あたりのある人がどんどん書き込んでいく。すでにインドに帰った人からも情報が寄せられる。ときにはフェイスブック上で値段交渉が行われたりもするのがインドらしい。

食材などもやはりネット販売ができるので、リアル店舗の数が街には比較的、少ないようだ。

「まだ生野菜など日本ではなかなか手に入らないものがある」と言うが、それでも西葛西での暮らしにほとんど不都合はなくなったそうだ。

■西葛西リトル・インディアは4000人規模になった

4000人にまで膨れ上がった西葛西リトル・インディア。インド全土からIT技術者を中心に集まってくるが、IT産業の集積地として知られる街バンガロールを擁するカルナータカ州やアンドラ・プラデーシュ州、タミル州など南部出身者が目立つそうだ。シーク教徒とも交流はあるが、人数は多くないという。シーク教徒は商人が多くIT系は少ないのだそうだ。

この4000人は、いまも少しずつ増加している。リトル・インディアは拡大を続けている。

「インドでも整備が進められている高速鉄道には、日本の新幹線方式が取り入れられることになりました。そのシステムを学ぶために、さらにたくさんの技術者が日本にやってきているんです。自動車関連産業から日本に派遣されてくる技術者もいます。西葛西のインド人はどんどん増えています」

しかしその技術者たちの入れ替わりは激しい。早ければ半年から1年、長くても2、3年でインドへと帰っていく。長い年月を日本で過ごす人は少ない。チャンドラニさんは、それを少しだけ寂しく感じているように思った。

■帰化したインド人が江戸川区議に当選

室橋裕和『日本の異国: 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)

最後にどうしても気になっていたことを、失礼ながら聞いてみた。どうしてそんなに長々とひげを伸ばしているのですか……?

「これね。なぜかは知らないけれど、うちの一家は代々、長男はひげを伸ばし続けて一度も剃ってはならないって家訓があるの。まあ自然と抜けていくからこのくらいでおさまるんだけど」

それならお子さんもやっぱり立派なひげなんでしょうか?

「うちは娘だから」

在日インド人の父はそう言って、チャーミングに笑うのだった。

追記:2019年4月、江戸川区のインド人社会に大きなニュースがあった。西葛西に15年ほど暮らし、日本に帰化して被選挙権を持つ、よぎ(プラニク・ヨゲンドラ)さんが区議会議員選挙に立ったのだ。「地域と外国人コミュニティとの架け橋に」を合言葉に選挙戦を戦い、定数44のところ5位で当選する快挙を成し遂げた。江戸川区政にどんな変化が現れてくるだろうか。

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室橋 裕和(むろはし・よしかず)
ライター・編集者
1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)など。

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(ライター・編集者 室橋 裕和 撮影=室橋裕和)

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