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自ら傷口に塩を塗る"トラウマ"という呪詛

プレジデントオンライン / 2019年7月25日 17時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/damircudic)

過去のつらい経験を、「トラウマ」という言葉で説明する人がいる。MP人間科学研究所代表の榎本博明氏は「記憶を『トラウマ』や『アダルト・チルドレン』という言葉に落とし込んでいては永遠に立ち直れない。苦い経験をどう意味づけるかによって、過去は暗くも明るくも塗り替えられる」と指摘する――。

※本稿は、榎本博明『なぜイヤな記憶は消えないのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■“トラウマ”という言葉を安易に使っていないか

近頃、「トラウマ」という言葉を安易に使う人が目立つ。実際、私が相手の心の中に眠っている記憶を掘り起こすための「自己物語」を聴取する面接をしていても、トラウマという言葉をしばしば耳にすることがある。そもそもトラウマというのは、心に深い傷を残すような深刻な出来事を指すものであり、ちょっとショックを受けたくらいのことでトラウマになったりはしない。

なかには壮絶な境遇を生き抜いてきて、深刻なトラウマを抱え、それに脅かされている人もいる。だが、自分が現在不幸なのは若い頃の経験がトラウマになっているからだという人たちの話を聞くと、たいていはそこまで深刻なものとは思えない。むしろ、トラウマ神話とでも言うべきものにとらわれることで、自伝的記憶を暗い色に染め上げ、そのせいで人生に前向きの姿勢が取りにくくなっていると思わざるを得ない。

ひと頃広まったアダルト・チルドレン神話も同じだ。アダルト・チルドレンというのは、元々はアルコール依存症の親によって虐待を受け、親に守られて子どもらしく育つことができなかった人物を指す用語だった。

だが、この言葉が広まるプロセスで、親が親の役割をしっかり担うことをしなかったため、幼少期から過度の責任を負わされ、親の顔色を窺いながら負担を掛けないように心がけなければならず、子どもらしい無邪気な幼少期を過ごせなかった人物といった意味合いをもつようになった。

■「自分はアダルトチルドレンだから」

親子関係の様相は、じつにさまざまである。親が精神的に未熟だったり、経済的に苦しく稼ぐのに必死だったり、あるいは自分が輝くことで頭が一杯だったりして、子どもにとってよき保護者ではなかったというのは、けっして稀なことではない。

問題なのは、何をやってもうまくいかない自分、どうにも好転していかない現状を前にして、それを不幸な生い立ちのせいにすることだ。

自分の今の暮らしが良くならないのは、アダルト・チルドレンだからだ。生い立ちのせいで、不幸な人生になってしまった。このような因果論を採用してしまうと、将来展望も暗いものにならざるを得ない。過去が悪いから現在が悪い、現在が悪いから未来が悪い。これでは永遠に立ち直れない。

不幸な生い立ちだからといって、だれもがみな不幸な現在を生きているというわけではないし、将来を悲観しているわけでもない。過去の影響、生い立ちの影響はだれもが受けるものだが、そのとらえ方しだいで今が変わり、未来が変わる。

ある40代の女性は、自分もまさにアダルト・チルドレンだという。自己チューで家族に対する愛情のかけらもない自分勝手な父親と、子どもや夫への優しい気遣いはあるものの情緒的に未熟で自分のことで精一杯な母親のもとで育った。幼い頃は父親が怖かったが、小学生くらいになると気持ちの上では見限っていた。

父親を怒らせないようにビクビクする母親、父親の酷さを嘆き、ときに涙を流す母親をみて育つことで、自分の感情を抑えるようになった。自分が負担をかけたら、それでなくても不安定な母親が潰れてしまう。そう思って、甘えられない子どもになった。親子の役割が逆転しており、まさにアダルト・チルドレンの典型といえる。

■暗い生い立ちを乗り越えた人がしていること

だが、この女性は、このような生い立ちのお陰で自立心が身についたという。周囲には大人になっても甘えが強く、自立できない人が多い中、甘えたり頼ったりすることなく、何でも自分でしようとする姿勢が責任感につながり、職場で信頼を得てきた。

また、人間関係が良好で、どんな相手ともうまくかかわっていけるのも、親の顔色を窺って育つことで人に対する気配りができるようになったためだという。頼れるのは自分だけという気持が強く、人を心から信頼できない、どんなに親しくなっても甘えられないし気を許せないという淋しい自分の問題を薄々感じてはいるものの、社会生活はすこぶるうまくいっているという。

この事例からも明らかなように、生い立ちは客観的な形で記憶を形成するのではない。心の中で意味づけされながら記憶となっていくのである。同じような生い立ちも、その意味づけの仕方しだいで、明るい未来を呼び寄せる記憶にもなれば、暗い未来を呼び寄せる記憶にもなる。

トラウマ神話やアダルト・チルドレン神話が罪なのは、今の不遇を生い立ちのせいにすることで、過去を否定的なものとして固定し、不遇な現状から脱せる希望を奪ってしまうことだ。大切なのは、不幸な生い立ちからも、今の自分につながる肯定的な意味を読み取ることである。それによって未来への希望が見えてきて、今を前向きに生きる力も湧いてくる。

■同じ仕事でも不満な人と満足な人がいるワケ

ここで改めてわかるのは、私たちが生きているのは事実の世界でなく意味の世界だということである。もちろん人生において身に降りかかる事実が基本なわけだし、事実は関係ないというのではない。だが、私たちが事実を経験するとき、じつは事実そのものではなく、事実のもつ意味を経験するのである。

似たような境遇にあっても、前向きな気持ちで日々を過ごしている人もいれば、愚痴っぽくうつうつとした日々を過ごしている人もいる。境遇そのものが問題なのではなく、自分の境遇をどう意味づけるかが問題なのである。私たちは、現実そのものを生きているのではなく、現実が自分にとってもつ意味の世界を生きている。

ある企業で働く人たちを対象に意識調査を実施した際に、面白いことがわかった。同じ職場で同じ業務を担当していても、給料が安いとか残業が多いとか仕事にやりがいがないなど会社や仕事に対する不満が多い人がいる一方で、お客さんから直接反応があるからやりがいがあるとか自分の成長につながっていると感じるなどと満足感を示す人がいるのだった。

現実のもつ意味というのは、結局のところ本人が感じ取るものである。客観的な職場環境や業務内容が問題なのではなく、それらを本人がどう受け止めるかによって、仕事生活の意味が決まるのである。

■後悔や挫折の「その先」を考えること

人生の意味も同じだ。自分はろくな人生を生きていない、こんな人生には意味など感じられないと、日々の生活の虚しさを嘆く人がいる。なんでこんな人生に追いやられてしまったのかといった絶望的な気持ちに陥っていたりする。

だが、その人の人生そのものが悪いわけではない。その人が自分の人生にポジティブな意味を見出せずにいるところが問題なのだ。自分の人生に対して、「意味がない」とか「虚しい」といった意味づけをしているのは、紛れもなく本人自身なのである。

人生は思い通りにならないことの連続だ。プライベートや仕事上の人間関係、勉強面や仕事面の実績など、思い通りにならなかったさまざまな出来事を経験し、後悔や挫折感を味わうものだ。

だが、大事なのはその先だ。それぞれの思い通りにならなかった出来事からどんな意味を汲み取るか。それによって、過去のもつ意味が違ってくるし、自伝的記憶の雰囲気が違ってくる。

自分の生い立ちをどう意味づけるか、自分の人生の意味をどうとらえるかは、結局のところ自分しだいなのである。生い立ちそのもの、人生そのものに元々の意味があるわけではない。自分がどのような意味を与えるかによって、生い立ちの意味、人生の意味が決まってくる。

ゆえに、自分の視点が変われば、経験した事実は変わらなくても、自伝的記憶のもつ雰囲気がネガティブなものからポジティブなものへと変わるのは十分あり得ることなのである。

■過去の記憶は塗り替えることができる

このように自伝的記憶というものは、けっして過去の時点で固定されたものなどではなく、現在の自分の視点からつくられたものなのである。このことは、とても重要なことを私たちに教えてくれる。

それは、自伝的記憶は書き換えることができ、私たちは自分の過去を塗り替えることができるということである。

私たちの記憶が教えてくれる自分の過去の姿は、今の自分の視点から見たものにすぎない。ゆえに、今の自分の心理状態が変わり、違った視点で振り返るようになると、自分自身の過去の見え方が違ってくる。

自伝的記憶は、たしかに自分の生い立ちを軸にして、自分の成り立ちを説明する記憶であり、自分らしさをあらわすものである。ただし、それはそれぞれの出来事が起こった過去のさまざまな時点の自分のものなのではなく、振り返っている今の自分のものである。たとえば、現在適応している人が不適応な人よりも自分の過去に対してポジティブな記憶を抱えているのも、記憶が現在を映し出すからである。

■なかったことにできなくても、視点は変えられる

榎本博明『なぜイヤな記憶は消えないのか』(KADOKAWA)

そこでわかるのは、今あなたが抱えている自分の過去についての記憶は、あり得るさまざまなバージョンの中のひとつに過ぎないということである。振り返り方によって、同じあなたの過去の事実群をもとに、何通りもの自伝的記憶を紡ぎ出すことができる。振り返り方を変えれば、今とはまったく趣の異なる自伝的記憶をもつことができるのだ。

カウンセリングで自己観が変わって生まれ変わるときも、何らかの衝撃的体験や運命的な出会いによって新たな気づきを得て人生観が変わるときも、新たな視点による自伝的記憶の書き換えが行われるのである。

カウンセリングを受けたからといって、これまでに経験した出来事を経験しなかったことにできるわけではない。経験しなかった出来事を経験したことにすることもできない。それでもカウンセリングで人は立ち直ることができる。生まれ変わることができる。それは、これまでの人生を振り返り、意味づける視点が変わるからである。

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榎本 博明(えのもと・ひろあき)
MP人間科学研究所代表
心理学博士。東京大学教育心理学科卒業。東京都立大学大学院心理学専攻博士課程中退。カリフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授などを経て現職。『なぜ、その「謙虚さ」は上司に通じないのか?』、『「忖度」の構造』ほか著書多数。

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(MP人間科学研究所代表 榎本 博明 写真=iStock.com)

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